第41話 もうひとつの憧れ
「
ガシっと両手で右手をにぎられる。
「ありがとう……!」
「え」
瞳をうるうるとうるませて忍を見あげているのは、かわいい女の子――ではなく、調理用の白衣を着た白髪まじりの男性、
忍は、開店まえの『おかずの
「もう何年も、悪い男にだまされてるんじゃないかと心配で心配で……! だけど、忍くんもわかるだろう。この子はダメといわれればいわれるほど意地になってしまう、あまのじゃくなところがあるから」
「ちょ、ちょっとお父さん!」
となりであわてている紗菜子を横目に、忍は心のなかで深くうなずいていた。
彼女の恋がしあわせなものではないということくらい、両親だってとっくに気がついていたのだ。生活も仕事もともにしているのだから、当然といえば当然だった。
「ずっと、この日を待っていたんだ。忍くん」
「はい」
忍の手をにぎる両手にぐっと力がこもる。
「娘を、紗菜子を、よろしくお願いします」
「……はい」
まるで結婚の挨拶にきたみたいだ。実際は交際の挨拶にきただけなのだが、気持ち的には似たようなものかもしれない。
わざわざ交際報告なんて――と、紗菜子は気が進まないようだったが、おなじ商店街で暮らしているのだ。今後のためにもちゃんとしておくべきだと思った。その紗菜子はといえば、いたたまれなくなってしまったのか、ぶっきらぼうに「着替えてくる」といいおいて、そそくさと自宅である二階にあがっていった。
さすがに、ここまでもろ手をあげてよろこばれるとは忍も想像していなかったが、恋人となった紗菜子の両親に信頼してもらえているというのは素直にうれしい。きてよかったと、ほっと胸をなでおろした。
*‐*‐*‐*‐*
はじまりは今朝。悪夢から目ざめて泣きだしてしまった紗菜子をなだめるところからスタートした。時間にすればほんの数分のことだ。しかし忍にとっては大変な試練となった。起き抜けの紗菜子に素っ裸でぎゅうぎゅうしがみつかれては、平常心でいることなどできるはずもない。
コーヒーの産地やブランドを心で唱えたり、なけなしの理性をすべてかきあつめても危ないところだったが、忍の自制心が崩壊するまえに、紗菜子はどうにか落ちつきをとり戻してくれた。そこで、今日なにかしたいことはあるかとたずねると、彼女は『ふつうのデートがしたい』とこたえた。
映画を観たり、お茶を飲んだり、ふつうのカップルがするような、ふつうのデートがしたい――と。
その願いが、忍にはすこし切なかった。彼女が抱えてきた五年間のかなしみがそこに集約されているような気がして、ちくりと胸が痛む。やっぱり
また、紗菜子は忍の誕生日プレゼントも買いたいとつけたした。プレゼントならもうもらっているのに。しかし妙にもじもじといいよどむ彼女を見ているうちに、ある記憶がふと忍の脳裏によみがえってきた。
高校時代の紗菜子が思い描いていた憧れが『好きな人の誕生日は、前日の夜からデートして、日付が変わった瞬間におめでとうといいたい』というものだったわけだが、じつはもうひとつ、彼女には憧れるものがあったのだ。
それは、恋人ができたら、さりげなく『おそろい』にできるもの――身につけるものや日常的につかえるものをプレゼントしあいたい。というものだった。
いつごろ聞いたのだったか。やはり紗菜子が高校生のときか、それとも中学生のときか、もっとあとだったか。そのへんはあいまいだが、たしかに聞いた記憶がある。しかし本人はすっかり忘れているようで、『ペアでなんか買ってプレゼントしあうか』と忍がいったときの驚きっぷりがすごかった。目をまんまるく見ひらいて、首がもげそうな勢いでコクコクうなずくその姿があまりにもかわいくて、ついタネあかしをしそびれてしまったくらいだ。
我ながら浮かれていると思うが、店は誕生日休業にした。そして、『ふつうのデート』に出かけるまえに、紗菜子の両親に挨拶をしにきたのである。
うるうるにこにこ手を振る千井夫婦に見送られ、忍たちは店をあとにした。スタスタと競歩なみのスピードで歩きだした紗菜子の背中はツンケンしている。本人は隠していたつもりでも両親にはバレバレだったり、ほとんど結婚の挨拶のようになったり――と、いろいろ恥ずかしかったのだろう。
しかし小柄な紗菜子のはや足である。忍がその気になれば二、三歩で追いつけるのだけど、照れ隠しでプリプリしている背中がおもしろいので、わざとゆっくりついていく。
今日は水色のスカートに白のカーディガンをあわせている。またもやなかなか女の子っぽい。いや、もともと女の子なのだけど。パンツスタイルを見なれている目にはやはり新鮮に映る。
商店街を抜けて、大通りに出たあたりから紗菜子の背中がいじけはじめた。すこし放置しすぎたかもしれない。
三歩で追いついて、下からすくいとるように手をつなぐ。はじかれたように忍を見あげた紗菜子は、ふてくされようとして失敗してしまったような複雑な表情である。頬だけがほんのりと赤い。
「観たい映画はきまってんのか?」
「あ、う……」
ぱくぱくと口を開閉して、ぷるぷると首を横に振る。ほんのりだった頬が、真っ赤になってしまった。
このかわいい子がおれの恋人なんだと大声でいってまわりたいような、誰の目にもふれないように隠してしまいたいような、同時にこみあげてきた気持ちが心からあふれて、忍の全身を満たしていく。
「じゃあ、映画館についてからきめるか」
「……う、ん」
明るい太陽の下で、堂々と手をつないで歩く。たったそれだけのことが、紗菜子にとっては、たぶんとても特別な意味を持つ。
彼女のなかにある、つらい恋の記憶を、自分が上書きしていけたらいい。していきたいと、忍はそう思った。
(つづく)
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