第40話 恋人になりたい

 これが最後のチャンスだと、紗菜子さなこにだけは自分から伝えるのだと、しのぶはそう心にきめてこの日を迎えた。


 濃紺の空に白くにじんだ月の下。呼吸するのもためらうほど、空気がぴんと緊張している。

 先ほどまで落ちついていた鼓動がまた走りだした。ドクドクと息苦しいほどに胸を強く叩く。


 紗菜子の不安げな瞳がまっすぐに忍を見あげている。


 不安げ――だ。まちがいなく不安げだ。ここはふつう、頼りなく感じたりするところだと思うのだが、彼女はほんとうに、目力がやたら強い。


「ノブちゃん……?」


 ただでさえ、この目にみつめられると平常心ではいられなくなる。それにくわえて今まさに告白しようというこの状況である。本気でまいってしまう。このままではらちが明かない。


「紗菜、ちょっとうしろ向いて」

「へ?」

「はい、まわれ右」


 とまどう紗菜子の肩をつかんで、くるんと半回転させると、そのまま腕のなかに抱きこんだ。華奢な身体はすっぽりと忍の胸におさまってしまう。右手に持っているプレゼントの紙袋がガサっとちいさく音を立てた。


「ちっちゃいな」

「ええぇ……話ってそれ?」

「まさか」


 思わず笑ってしまって、わずかに力が抜けた。シャンプーの香りだろうか、わずかに甘い空気が鼻をくすぐる。


「……わたしも、話したいことあるんだけど」

「うん。もしかしたら、おなじことをいおうとしてるのかもしれない」


 忍の言葉に反応して、紗菜子の身体がわかりやすく強ばった。彼女の緊張がダイレクトに伝わってくる。


「先に、いわせてほしいんだ」


 紗菜子は身体をかたくしたままなにもいわない。忍はその沈黙を了承と受けとった。


 これでちがっていたら、軽く死ねそうな気がする。


 目を閉じて、深呼吸をひとつ。


「――好きだ」


 声がかすれて、ほとんど息にしかならなかった。それでも、静まり返った深夜の道ばたで密着していれば、耳に届くのには十分だったろう。忍の腕のなかで紗菜子の肩がぴくりとふるえる。


「ずっとまえから、紗菜は女の子だった。妹じゃなくて、おれにとってはずっと、ずっと大切な女の子だったんだ。……紗菜」

「……うん」

「おれ『お兄ちゃん』やめていいか。いや……ちがうな。やめたいんだ。お兄ちゃん。お兄ちゃんじゃなくて、恋人になりたい」



 *‐*‐*‐*‐*



 時間が停止してしまったみたいだった。紗菜子も忍も息をつめたまま、ときおりさらさらと頬をなでていく風だけが時間の経過を伝えてくる。


 せいぜい数十秒だったと思う。しかしそのたった数十秒が、忍には途方もなく長く感じられた。紗菜子の肩にまわしていた忍の腕が、ぎゅっとつかまれる。彼女の口から細くこぼれた吐息が、かすかにふるえている。


「わたしも」

「……うん」

「妹、やめたい」


 とぎれとぎれのちいさな声は、細くしめっていた。


 この気持ちを、どういえばいいのだろう。どんな言葉をつかっても表現できないような気がした。よろこび、しあわせ、安堵。どれもまちがいではないけれど、どれもしっくりこない。

 ただただ、忍の心に満ちてくるのは『今』という時間。そして、自分と紗菜子の未来がつながっていくような、なんともいいがたい不思議な感覚だった。


「今日、うち泊まってくか」

「……うん」



 *‐*‐*‐*‐*



 デートに誘われてからの一か月。そして迎えた今日。終始落ちつかなくて、ぎこちなくて、ほんとうに、中学生や高校生カップルがいどむ人生初デートみたいだった。


 忍には、確かにまともな恋愛経験がなかったけれど、ある程度の女性経験はある。だから、思ってもみなかった。ほんとうに好きな女を抱くということが、どれほど怖いことなのか。


 自分の手で壊してしまいたいという獰猛な感情と、どこまでもやさしくしたいと思う心。相反する欲望がないまぜになって、どうにかなってしまいそうだった。


 それでも。紗菜子が、大切な人が、もっと大切になった夜だった。



 *‐*‐*‐*‐*



 翌朝。


 目をさますと、なにやら紗菜子がうなされていた。眉間にしわを寄せて、うなるような声を口からちいさくもらしている。


 最初はようすを見ていたのだが、落ちつくどころかどんどんひどくなっていく。そのうち、ごめんなさいごめんなさい……と、寝言で謝りだした。さすがに心配になって、ふとん越しに身体を揺すって起こした。


 ぼんやりと目をまたたいた紗菜子の目尻から涙がこぼれる。それほど怖い夢だったのか。彼女はしばらくのあいだ、のぞきこむ忍の顔をぼう然と見ていたのだが、やがておもむろに両手を伸ばして、忍の首にぎゅうっと抱きついてきた。


 どうやら、昨夜の夢を見ていたらしい。忍におめでとうといえなかったと、ぐずぐず泣いている。不倫をしていた罪悪感が悪夢になってしまったというところか。


 気にするな――というのは、なにかちがうと思う。だが、紗菜子はもう十分すぎるくらいに苦しんできた。彼女がこの五年間を過去として消化できるまで、思いつめすぎないように気をつけてやらないといけないかもしれない。


 しかしこの状況をどうしたものか。忍はすでにTシャツとスウェットパンツを身につけているが、紗菜子は眠りについたときのまま、なにも着ていない。つまり、素っ裸である。起き抜けにこれはきつい。いや、たぶん起き抜けでなくてもきつい。かといって、泣いている紗菜子をつきはなすわけにもいかない。


 ――ジャマイカ、ハワイ、タンザニア、イエメン、ブラジル、コロンビア……


 とりあえず頭の中でコーヒーの産地をならべてみるものの、密着するぬくもりとやわらかさが邪魔をする。


 いったいこれは、なんの罰ゲームだろう。昨夜とはすこしちがう意味で、忍はまたどうにかなってしまいそうだった。



     (つづく)



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