第39話 今日に捨てていく

 水族館なんて、最後にきたのはいつだったろう。記憶はあいまいだが、すくなくとも、おとなになってからきたのは今日がはじめてだ。


 それにしても、想像以上に神秘的でしのぶはすこし驚いていた。


 海中を歩いているようなトンネル水槽。

 クラゲが涼しげにゆらめいている巨大水槽。


 青い照明に包まれた館内は、しっとりと幻想的な雰囲気を演出している。夜の水族館が定番のデートスポットだということくらいは忍も知っていたが、これほどとは思わなかった。


 しかし、やはりそれは人間の勝手な都合であって、水族館で暮らす生きものたちにはそんな演出など関係ない。どれほど幻想的で神秘的な空間をつくろうとも、彼らはそれらしいふるまいをしてみせたりはしない。


「寝てる……」

「寝てるなぁ……」


 ペンギンが腹ばいになって眠っていた。だらしなく伸びきっているペンギンもいれば、お腹のしたに羽をしまって、妙に行儀のいいペンギンもいる。それぞれが非常に無防備な寝姿をさらしていた。かわいいと笑っている紗菜子さなこの目がきらきらと輝いている。


 すこし気を抜くと中学生レベルになりさがってしまうので、なるべくデートだと意識しないようにしていたのに、こんな無垢な表情を見せられると、そんな努力は一瞬で宇宙のかなたに振り払われてしまう。


 しかも。


「ノブちゃん」

「ん?」

「手、つないでいい……?」


 とうとつにそんなことを聞かれては、言語能力そのものが消失してしまう。どこか不安げなまなざしにみつめられて、数秒か、数十秒か、しばらく硬直していた忍は無言のまま手をつきだした。


 紗菜子の顔がぱぁっと明るくなる。それから、ぴょんと飛びつくようにして、忍の手を両手でぎゅうっとにぎりしめてきた。


 忍の心は水族館どころではなくなった。



 *‐*‐*‐*‐*



 自分でも少々ひいてしまうくらい、頭も心も紗菜子で埋めつくされてしまって、ちょっとおしゃれなレストランでたべたはずの料理やお酒の味も、ふたりで歩いたはずの街の景色も、まるではいりこむすきまがなかった。記憶に焼きついたのは、笑ったりはにかんだりしている紗菜子の表情だけだ。


 そんな調子のまま、いつもの商店街に帰ってきたのは、日付が変わるすこしまえのことだった。


 暑くもなく、寒くもない。春と梅雨のあいだにある、いい季節だ。風がさらりと空気を流していく。満月までもう少しか。完璧なまるではない、半月をすこし太らせたくらいの、ふっくらふくらんだ月が明るい。


 幼いころ、まだにぎわっていた商店街を毎日のようにふたりで手をつないで歩いた。なによりも大切で、なによりも守りたくて、いちばん近くにいるために、どんなときも『お兄ちゃん』であろうとしてきた。


 二十代最後の夜。人通りのない商店街を、今またあのころのように、しかしあのころとはまったくちがう気持ちで、手をつないで歩いている。


 もうすぐ、今日がおわる。


 つないでいる紗菜子の手に、ぎゅうっと力がはいった。同時にぴたりと足が止まって、必然的に忍も立ち止まる。


「紗菜……?」

「カウントダウン、しよ」


 またかわいいことをいいだした紗菜子は、左手首の腕時計を目の高さにもってきて「あと一分!」と、だいぶひかえめに声をあげた。深夜である。商店街の住人はみな眠っている。おおきな声はだせない。


 緊張しているのか、明るい月とたよりない街灯に照らされた紗菜子の表情は微妙にかたい。


 はたしてここからはじまるのか。それとも壊れておわるのか。いずれにしても、今日で最後だ。


「あと三十秒」


 忍の気持ちは不思議と落ちついていた。先ほどまでそわそわしていたのがウソみたいだ。


「二十秒」


 こじらせた片想いも。

 人畜無害な『お兄ちゃん』のフリも。


 ぜんぶ、今日に捨てていくときめた。


「十秒」


 つないでいた手がするりとはなされる。


 そして、紗菜子がすこしおおきめのレザーバッグからとり出したのは、黒地にシルバーのロゴがはいった、ちいさな手さげの紙袋である。


「三、二、一……ノブちゃん、お誕生日おめでとう!」

「うん、ありがとう」


 受けとったその紙袋のなかには、ふだん忍が飲んでいるものよりほんのすこし高級なコーヒー豆がおさまっている。


 喫茶店の息子にコーヒー豆。最初、紗菜子はちょっとしたシャレのつもりだったらしいが、これが思いのほかうれしかった。コーヒーを飲むときは、どうしても『研究』しようとしてしまうので、自分では純粋に味を楽しむために買うということがなかなかできないのである。だが、忍の好みを考えて、紗菜子がえらんでくれたものとなれば話はべつだ。忍がほんとうによろこんだからだろう。以来、ブランドや産地を変えて毎年プレゼントしてくれるようになった。紗菜子が中学生のころからつづいている、お約束みたいなものだった。


「あの……それでね、ノブちゃ」

「待った」

「え」


 さえぎられた紗菜子は固まってしまった。きっと彼女も、なにかの覚悟をきめて今日のデートにいどんだのだと思う。その気持ちに水をさしてしまったのはほんとうに申しわけないのだが、忍としてもこれだけはどうしてもゆずれないのだ。


「話が、あるんだ」


 今日の今日まで、ずっと受け身だったからこそ、紗菜子にだけは、自分から伝えたい。



     (つづく)



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