今日に捨てていく

第38話 最後のチャンス

 非常に長く、とてもぎこちない一か月だった。顔をあわせるだけで微妙にそわそわしてしまって、ろくな会話ができない。当日どこに行くか、どこに行きたいか、紗菜子さなこから希望を聞きだすだけでもひと苦労だった。


 それでも。

 しのぶは覚悟をきめていた。


 もしかしたら、この一か月が紗菜子とすごせる最後の時間になるかもしれない。未来どころか、これまでの関係もすべてぶち壊すことになるかもしれない。


 人にいえば『なにをおおげさな』と笑うだろう。忍だって、もし友だちがそんなことをいえば『そんな深刻に考えるなよ』と、きっと笑う。なにしろ、紗菜子の気持ちはすでにわかっている。先日店にやってきた彼女の親友が教えてくれた。いや、はっきりそうといったわけではないけれど、そうとしか思えないことをいっていた。


 しかし本人から聞いたわけではないし、忍が誤解している可能性だってゼロではないのだ。楽観的に考えたいところではあるが、長年の片想いはこじれすぎて、単純思考をゆるしてくれない。



 忍が紗菜子への気持ちを自覚したのは、大学を卒業した直後、両親を立てつづけに失って途方に暮れていたころのことだ。


 忍は確かにずっと『お兄ちゃん』であろうとしてきた。しかし紗菜子を『妹』だと思ってきたかといえば、こたえはノーだ。忍にとって紗菜子はずっと大切な『女の子』で、そういえば『妹』だと思ったことはなかったと、はじめて気がついたのもそのときだったかもしれない。


 だが当時の紗菜子はまだ高校生で、彼女にとって忍は『お兄ちゃん』以外のなにものでもない。そして、ずっとお兄ちゃんでいると約束したのはほかでもない、忍自身なのだ。


 両親のこと。店のこと。幼い日の約束と誓い。あらゆるタイミングにそっぽを向かれたような状況で自覚したところで、どうしようもなかった――というのは、たぶんほとんどいいわけだ。なによりも、それまでの関係を壊してしまうのが怖かっただけなのだと思う。


 結局忍は『お兄ちゃん』という立場に甘んじて、きっとこれまでにもあったはずのタイミングをことごとく逃してきた。そして、忍がぐずぐずしているあいだに、紗菜子は不倫にはまりこんで抜けだせなくなっていた。


 あのときの、怒りなのか悔しさなのか、言葉にならない衝撃はいまだ胸に残っている。もう、あんな後悔はしたくない。


 たとえ、これまでの関係を壊すことになったとしても、きっとこれが、最後のチャンスだ。偶然ながら、今年は二十代最後の誕生日でもある。見えないなにかに背中を押されているような気がした。


 今度こそ、このこじらせてしまった片想いをおわらせる。忍はそう心にきめたのである。



 そうして、どうにか『夜間営業をしている水族館』に行き先もきまり、長い、ほんとうに長い一か月が過ぎた。



 夕方六時半まえ、店を早じまいにして駅に向かった。約束の時間より十五分ほど早く到着する。あえて外で待ちあわせたのは、『そのほうがデートっぽい感じがする』という紗菜子の意見を採用してのことだ。


 七時ぴったり。小走りで人なみを縫うようにやってくる紗菜子の姿が見えた。彼女のほうもこちらに気がついて、パッと笑顔になる。


 確かにこれは、すごくデートっぽいというか、カップルっぽいというか、なんだか心臓が落ちつかない。


「その服……」


 駆けよってきた紗菜子の全身が見えた瞬間、忍はほとんど無意識に口をひらいていた。

 小花柄のワンピースにデニムジャケットをあわせている。とても、めずらしい。惣菜の自転車配達もしているため、ふだんはたいていパンツスタイルだし、花柄というのも記憶にあるかぎりではほとんど見たことがない。


「……変?」


 紗菜子はとたんに落ちつきをなくして、まえとうしろと、ソワソワ見おろしたり振り返ったりしだした。


「いや、かわいい」


 紗菜子の動きがぴたっと止まる。


「花柄とかめずらしいなって思っただけ。似合ってるよ」

「ノブちゃん、そんなキャラだったっけ……?」

「なにが?」

「いや……」


 小学校くらいまでの紗菜子は、新しい服を着たときや、おしゃれをしたときに、忍が気づかなかったりほめなかったりすると、すぐふてくされていた。このようすだと、本人は忘れているのだろうが、忍が女性の容姿をほめることにさほど抵抗をおぼえないのは、紗菜子のおかげといってもいいだろう。


「紗菜?」


 おとなになってからも、成人式とか大学の卒業式とか、先日の結婚式のときだって、忍はふつうにほめていた。そして紗菜子もふつうによろこんでいたと思うのだが、なんだか今日は妙にドギマギしている。デートマジックだろうか。


「坊は、つけなくていいの?」

「あぁー、それは……」


 今度は忍がうろたえる番だった。この背中がかゆくなるような空気はどうしたらいいのだろう。たえきれなくて、忍は思わず紗菜子から視線をそらした。


「デートなんだろ? 今日は」


 だから『坊』とは呼ばない。呼ぶ必要がない。できることなら、これからずっと呼ばなくてすむようになれたらいい。なりたいと思う。


「うん」


 こくりとうなずいた紗菜子もまたもぞもぞしている。いいおとなが、そろって中学生みたいである。


「こ、この服ね! 奈子がえらんでくれたんだよ」

「そ、そうなのか」

「うん……」


 いや『みたい』ではない。これはもう、本気で中学生の初デートだ。


「い、行こ!」


 紗菜子はわざとらしいほど元気に声をはりあげて、おおまたで改札に向かう。


 こんなことで大丈夫だろうか。いや、大丈夫にしなければ。『お兄ちゃん』は今日で卒業するのだ。わずかな不安とおおきな決意を胸に、忍も彼女の背中を追った。



     (つづく)



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