第37話 思考と感情

 好きな人の誕生日は、前日の夜からデートして、日付が変わった瞬間におめでとうといいたい。それは紗菜子さなこが高校生のころに語っていた夢だ。


 そしてしのぶは来月――五月十七日の夜にデートしてほしいと紗菜子から誘われた。翌十八日は忍の誕生日である。


 これを、どう考えればいいのだろう。かつて語っていた彼女の『夢』は、はたして今も変わっていないのか。その日――忍の誕生日前夜に誘ってきた事実を、そのまま受けとってもいいのか。


 紗菜子は『デート』と、はっきり口にした。今にも泣きだしてしまいそうな、必死な顔をしていた。


 それでも、すんなり受けとるには、あまりにも『お兄ちゃん』として過ごしてきた時間が長すぎた。思考と感情がちぐはぐで、衝突してはからまりあって混乱するばかり。ひと晩たってもまだ、忍は事実を事実として信じることができずにいた。


 しかしなによりの問題は、約束の日まで一か月以上ある――ということだった。一か月以上も、紗菜子の真意がわからないまま過ごさなくてはならない。先に聞くのはさすがにルール違反というか、野暮というか、約束の意味がなくなってしまいそうである。それに、たとえ聞いたところで教えてもらえないだろう。結局、おとなしくその日を待つしかないという結論にいたる。だからといって、どっしり構えていられるはずもなく、内心そわそわと落ちつかない日々を送ること約一週間。ちょっと以外な人物が『ミモリ』にやってきた。



 *‐*‐*‐*‐*



「こんにちはぁー、おっじゃましまーす」


 その日開店してまもなく、友だちの家に遊びにきた女子高生のようなノリで来店したのは、紗菜子の親友で新婚ほやほやの、大木おおき――あらため、人好奈子ひとよしなこだった。彼女が『ミモリ』にくるときは、たいてい紗菜子が一緒なのだが、今日はひとりである。待ちあわせというわけでもないらしい。

 わざわざ電車に乗って、コーヒーを飲みにきただけ――ということはないだろう。忍に用があると考えたほうが自然だ。なにしろこのタイミングである。紗菜子からなにか相談されているのかもしれない。

 あれこれと思いをめぐらせながら、忍はカウンター席に座った奈子のまえにコトリと水を置いた。



 たわいない世間話をしながら、おそらくは本題を切りだすきっかけをうかがっていたのだろう。カップのなかのコーヒーが半分ほどに減ったころ、奈子はかちゃりとソーサーにカップを置いて、ぴんと背筋を伸ばした。


見守みもりさん」


 まっすぐ忍をみつめてくる目が真剣である。


「単刀直入にうかがいます」


 きたな――と、忍はカトラリーを磨いていた手を休めて、目顔で先をうながした。


「紗菜が不倫してたこと、どう思ってます?」

「――え」

「わたしはこのまえ聞いたばかりなんですけど、見守さんは、ずっと近くで見てたんですよね。ゆるせないとか、軽蔑してるとか、いろいろあるでしょう?」


 奈子がなぜこんな質問をするのか、その意図が見えない。ただ、いつでも紗菜子の味方でいるという点では彼女も忍とおなじだった。ほかのことは知らないが、その一点において忍は奈子を信頼している。


「紗菜子は、恋をしただけだよ」


 構えることなくそうこたえて、ふと思いだす。奈子の結婚式で、紗菜子本人にもおなじことを聞かれたのだった。思わず笑みがこぼれて、奈子に怪訝な顔をされる。


「ああ、ごめん。まえに紗菜子にもおなじこと聞かれたんだ」

「なんてこたえたのか、聞いてもいいですか」

「軽蔑なんてしてない。バカだなーとは思うけど。ってこたえた」


 奈子は目をぱちくりさせて、それからコロコロと笑いだした。


「わたしね、見守さん。中学とか高校とか、それくらいのころから今日まで、ずぅーーっと、ほんとうにずうぅーーーーっと、さっさとくっつかないかなぁーと思ってる人たちがいるんですよ」


 まだ目に笑いを残したまま、しかしどこか挑むように忍を見ている。奈子の目力も紗菜子に負けず劣らず、なかなかのものである。忍はほんの数瞬、奈子の旦那に思いをはせた。彼も苦労しているのかもしれない。

 いや、それよりも、奈子がいっているのは、もしかしなくても忍と紗菜子のことだろうか。


「ふたりとも不器用で、変にまじめで、頑固で、自分の気持ちにも気づいてなかったりして、もうほんとうにじれったくって、どうしようもないんです。でも、やっとね、なんとかなりそうな気配がしてきたんですよ。今度、デートするらしくて」


 どうやら、まちがいないみたいだ。いくら鈍感といわれる忍でも、ここまでいわれたらさすがにわかる。


「彼女のほうが勇気を出したんです。わたしとしては、デートでは彼にビシッときめてほしいんですけど。彼さえその気になれば、きっとうまくいくと思うんですよ。……見守さんは、どう思います? 彼、がんばってくれますかね?」


 彼女のほうが、勇気を出した。


 それがほんとうなら、やはりあれは忍の都合のいいかんちがいなどではなかった――ということか。紗菜子の必死な表情が目に浮かぶ。


「そうだな……」


 あの日のことを、忍はようやく信じる気持ちになれた。同時に、お兄ちゃんをやめたいと思いながら、今の関係を壊すのが怖くて二の足を踏んでいた自分が恥ずかしくなってくる。


 約束までの一か月。その時間が不安なのは、きっと忍だけではない。紗菜子もおなじように、いや、もしかしたら忍以上に落ちつかない日々を過ごしているのかもしれない。そして、おそらく奈子は、そんな紗菜子をささえようとしてくれている。そのために、こうして忍の気持ちをたしかめにきたのだろう。


「男のほうも、がんばろうと思ってるんじゃないかな」


 奈子の顔がぱっと明るくなった。それだけで、彼女がどれほど紗菜子のしあわせを願ってくれているのか、はっきりと伝わってくるような笑顔だった。


 紗菜子は、いい友だちを持った。



     (つづく)



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