第36話 デートの誘い
失った記憶をとり戻したいというのはおそらく口実で、
なんにしろ、はじめて彼女ができたのはいつだったか――という質問は確認のためだったらしい。忍が高ニのときだとこたえると、紗菜子は『だよね』というようにうなずいた。
もともと、忍が高校時代につきあっていた
紗菜子は視線を落として、じっとなにか考えているようだったが、やがてカウンターにひじをついて両手で頭を抱えてしまった。
いったい、どうしてしまったのだろう。なんだか忍も頭を抱えたくなってくるが、抱えたところでどうにもならないのはわかりきっている。
とりあえず『大丈夫か』とたずねてみれば、『大丈夫じゃない』と返ってきた。こういうとき、いつもであれば反射的に『大丈夫』とこたえるのが紗菜子である。そのときの声や口調によって、忍はほんとうに大丈夫か大丈夫じゃないかを判断してきたのだが――困った。このパターンは経験がない。さて、どう判断すればいいのだろう。
大丈夫じゃないとこたえた弱々しい声は、言葉どおり大丈夫じゃなさそうだ。紗菜子にしては素直すぎるような気がするのだが、それはつまり、強がることもできない精神状態だということだろうか。ちょっと本気で心配になってきた。
「三角さん、今どうしてるのかな……」
そしてなぜ、ここで愛の名前が出てくるのだろう。質問にこたえていけば、自然とほんとうの目的が見えてくるだろうと思っていたのだが、むしろ謎が深まっていくような気がする。困惑しつつも、特に隠すことでもないので忍は事実を口にした。
「結婚したよ」
「――えっ!?」
カウンターにつっぷしていた紗菜子は顔をガバッとあげた。その勢いに少々めんくらいながら、忍は去年、愛が来店したときのことを話した。
「結婚……」
「うん。しあわせそうだった」
そっか……と、紗菜子は声にならない吐息をもらして、ついでのように言葉をつづけた。
「ノブちゃんは、なんで彼女と別れたの?」
ほんの一瞬言葉に迷う。けれどこればかりは、いくら時間がたっていてもいえない。いつでも紗菜子のことを最優先に考えてしまっていたから――なんて、いえるわけがない。
「それは内緒」
「やっぱだめか」
紗菜子もまたあっさり引きさがる。そして、くたぁーっと、ふたたびカウンターにつっぷしてしまった。
「なぁ、ほんとうにどうしたんだ?」
ここまで本題を話そうとしない紗菜子なんてはじめてだ。
「来月」
「うん……?」
今は四月。ということは、考えるまでもなく来月は五月である。カウンターにつっぷしたままの紗菜子はそのまま沈黙してしまう。それから十秒ほどたっただろうか。突然、思いきったようにバンッと手をついて、カウンター内にいる忍のほうに思いっきり身をのりだしてきた。
「来月――! 十七日の夜!」
「お、おう?」
「わたしとデートして……!」
「えっ」
「来月の十七日の夜! わたしとデートして!」
思考がしばし空転する。
紗菜子はまばたきひとつせず、必死の形相だ。
来月。つまりは五月。そして、十七日。五月十七日。
「十七日の夜――か」
ふいによみがえってくる記憶があった。
「そう」
――好きな人の誕生日はねー、まえの日の夜からデートして、日付が変わった瞬間におめでとうっていうのが夢なんだぁ。
紗菜子がそんなことをいっていたのは高校生のころだったか。
「デート」
十七日の翌日は十八日。
五月十八日は、忍の誕生日だ。
「うん」
これは――そういうことだと思っていいのだろうか。
いや、でも、これまでそんな素振りなか……っただろうか。もしかして、気がついてなかっただけなのではないか。
数秒のあいだに、疑問とか願望とか、自分でも把握しきれないくらいの、あらゆる『まさか』と『でも』がぐるぐると脳内をめぐる。紗菜子の『悩み』はつまり忍のことで、だからここまでかたくなに話そうとしなかった――ということなのだろうか。
紗菜子はやっぱりじっと忍を見ている。気迫がすごい。デートではなく、決闘を申しこまれているのではないかと錯覚しそうになるくらいだ。が、今にも泣きだしてしまいそうにも見える。
早くこたえなければ――と思うのだけど、口もノドもカラカラにかわいて、声が出てこない。というか、声ってどうやってだすんだっけ? と、まじめに悩みそうになるほど忍は混乱していた。
都合よく考えようとすれば、思いあたることはいくらでも出てくる。最近ならば、
いや、考えるのはあとにしよう。
今たしかなのは、紗菜子が忍をデートに誘っているということと、その返事を待っているということだけだ。
こんなとき、なにか気のきいたことがいえれば人生ちがっていたのかもしれないと、ふと思う。べつに、今の人生に不満があるわけでもないのだが、なんというか――気のきいたことをいいたいのにいえない自分に、ちょっとがっかりしてしまったのである。
なにしろ、忍はたったひとこと。
「わかった」
そう声をしぼりだすのが、精一杯だったから。
(つづく)
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