第35話 いちばん近くにいるために

 近所に出没していた不審者による誘拐未遂事件。そのターゲットになってしまった紗菜子さなこは当時六歳。彼女の悲鳴を聞いて現場にかけつけたしのぶは十一歳だった。


 結果だけを見れば、事件は未遂ですんだし、犯人もその場で逮捕された。人は『無事でよかった』というだろう。実際、忍は何人ものおとなたちがそういっているのを聞いた。だが、当事者にとっては、けっして『無事』などではないのだ。


 現に紗菜子はおびえていた。あたりまえだ。中年男に無理やりつれ去られそうになって、殴られて、いったいどれほどおそろしかったか。

 そしてそう思う忍もまた、おびえていた。泣き叫ぶ紗菜子が車に押しこまれそうになっているのを目にしたときの恐怖。わずか十メートルの距離が届かない絶望。今ある日常があたりまえではないということ。いつ理不尽に壊されるかわからないということ。失う恐怖。奪われる絶望。それはまだ幼く、やわらかかった忍の心の底に深く埋めこまれることになった。


 しかし、そんな忍から見ても気の毒だったのが紗菜子の父親である。


 彼はとてもおだやかな人で、声を荒らげたところなど、忍は一度も見たことがなかった。男性としては小柄なほうで、威圧感などもまったくない。およそ怖がられるようなタイプではないのだが、当時の紗菜子にとっては『おとなの男』というだけで、恐怖の対象になってしまった。それが犯人と同年代とあってはなおさらだった。


 かわいい娘に、顔を見るたび大泣きされて、泣きそうになっている父親――というのは、なにも知らなければほほ笑ましく見えたかもしれない。だが、紗菜子は本気でおびえていたし、自分の存在が紗菜子を怖がらせてしまうということに父親は途方に暮れていた。


 当時の紗菜子が、完全に自分の『味方』だと認めていたのは、おそらく忍だけだった。なぜなら、母親は父親と仲がよかったからだ。いや、それ自体はとてもいいことだし、通常であればなんの問題もない。しかしそのときの紗菜子にとっては、恐怖を呼び起こす父親と仲のいい母親もまた『敵』のように見えてしまっていたのだろう。事件が起こったのが春休み中だったこともあり、紗菜子は朝から晩まで忍にくっついて離れなくなった。


 どういえば紗菜子の恐怖心をやわらげることができるのか。


 親ですら無条件に信じることができなくなっている紗菜子には、安心できる根拠と理由が必要だった。だが、いくら頭をひねったところで、小学生の忍が考えられることなんてたかが知れている。結局、口にできたのは『おじさん(父親)は家族だ』という、わかりきった事実だけだった。


 家族だから、紗菜子にひどいことなんかしない。今までもこれからも、ずっと家族だから。怖いことなんてなにもない。

 言葉を変え、いいかたを変え、おじさんもおばさんも紗菜子が大好きで大切なのだと伝えつづけた。


 ほんとうは『家族だから』なんて、なんの根拠にも理由にもならないということくらい忍も知っていた。けれど、このとき必要だったのは、一般論や現実論ではなく『紗菜子に届く言葉』だった。ちゃんと両親に大切にされてきた紗菜子には、十分な理由になったはずだ。


 しかし紗菜子は、未来の忍にも不安を持っていた。



 ――……こわくならない?


 ――え?


 ――おっきくなっても、ノブちゃんこわくならない?


 ――ならないよ。


 ――ほんと?


 ――ほんと。



 きっぱりとそう約束した忍だが、それも紗菜子によって『お兄ちゃんだから』という理由づけがなされた。家族じゃなくても、お兄ちゃんだから怖くならない、と。



 ――もう、こわいひとこない?


 ――うん。もう怖いやつはいない。もしきても、だいじょうぶだよ。おれがそばにいるから。


 ――ずっと、いっしょ?


 ――うん、一緒。


 ――ずっと、さな、まもってくれる?


 ――守るよ、ずっと。


 ――ほんとに?


 ――ほんとに。


 ――ずっと、おにいちゃん?


 ――……うん。ずっと。



 あのとき、忍の心を支配していたのは恐怖だ。失う恐怖。奪われる恐怖。おびえる紗菜子の瞳。守れるならなんでもしようと思った。だから、守るために。いちばん近くにいるために。忍は紗菜子にもとめられるまま『お兄ちゃん』になったのだ。



 *‐*‐*‐*‐*



 忍の説得が功を奏したのか、それとも時間の力か。とりあえず一週間ほどたったころには、父親の顔を見ても紗菜子が泣くことはなくなっていた。ときをおなじくして、新年度もはじまり、紗菜子も小学生になった。


 けれど、忍にべったりなのは変わらないままで、放課後はどこへ行くにも忍にひっついていた。おかげで忍は、クラスの、おもに男子たちに『女子のいいなりになって』と、よくからかわれた。それでも紗菜子を優先していたら、しだいに遊びに誘われることもなくなっていったのだが――なぜだろう。不思議とあまり気にならなかった。いいたいやつには、いわせておけばいいと思った。からかわれようがバカにされようが、紗菜子が無事でいてくれるのなら、それだけでよかったのだ。



 *‐*‐*‐*‐*



 紗菜子には、忍の個人的事情――失う恐怖とか、クラスメイトにからかわれていたとか、そういうものはすべて除外して話したのだが。なにやらモゴモゴとつぶやいてはヘコんでいるところを見ると、それなりに思い出してしまったようである。もっとも、事件の記憶が戻った――というわけではなさそうだった。ひたすらしょんぼり落ちこんでいる。おそらく、自分がくっついていたせいで忍がバカにされていたとか、そのへんのことを思い出してしまったのだろう。


 そして――


「ノブちゃんにはじめて彼女ができたのっていつだっけ」


 また思いがけないところに話が飛んだ。いったい、紗菜子の目的はどこにあるのだろう。


「なんだよ、いきなり」

「いいから」


 この、いいだしたら聞かない感じ。こうなったらもう、なにをたずねてもムダである。知りたければ、へたに問いつめるよりも質問にこたえたほうが早い。


 どうも、失った記憶をとり戻したい――というのは、なにかの口実のような気がしてきた。



     (つづく)


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