第34話 お兄ちゃんになった日

 藤津馴人ふじつなひとの一件から約半月。


 四月にはいり、花びらを散らしはじめた桜の木には緑が目立つようになってきた。紗菜子さなことの関係は、特に変わっていない。


「ありがとうございましたー」


 しのぶは最後のお客を送り出して、ドアにクローズの看板をかけた。夜九時。『ミモリ』の閉店時間である。


 カウンターの真ん中からふたつずれた定位置には紗菜子の姿がある。彼女が来店してから小一時間はたっていた。しかしどうしたことか、彼女はなかば石像と化している。


「さな坊」

「な、なに?」


 ビクッと肩をふるわせて、応じた声もひっくりかえっている。なに――は、忍のほうが聞きたいくらいだ。いったいなにがあったのだろう。


「コーヒー、もう一杯飲むか?」

「いただきます……」


 長いつきあいだ。なにか話したいことがあるというのはわかる。話したいのに話せないこととなると――


「あの男のことか?」


 ハンドミルでコーヒー豆を挽きながら、忍はたずねた。コリコリと、一定のリズムでハンドルをまわす。


「ち、ちがうよ! そんなわけないじゃない!」


 紗菜子は首がひきちぎれそうな勢いで、ぶんぶんかぶりを振って否定した。


「あの場にいてなんでそんなこと思うかな」


 忍としては『いたからこそ』思ったのだが、紗菜子は鼻息も荒くぷりぷりしている。


 ぜんぜん怖くない。というか、かわいいとしか思えない。だがその反応を見るかぎり、プライドをつぶされた藤津が彼女になにかしてきた――というわけではなさそうだ。しかし、万が一ということもある。


「じゃあ、ほんとにちがうんだな?」

「ちがうよ」


 挽きたてのコーヒー粉をフィルターにセットして、少量のお湯をそっとそそぐ。立ちのぼるコーヒーの香りがこうばしい。


「因縁つけられたりしてないな?」


 紗菜子は一瞬きょとんとして、それから驚いたように目と口をまるくした。その可能性はまったく考えていなかった――という顔である。


 なるほど。忍にも紗菜子が怒った理由がわかった。彼女は先ほどの『あの男のことか?』という問いを『よりを戻したのか?』と、受けとっていたのだ。


「してないよ」


 あらためて、忍の意図を正しく理解したのだろう紗菜子はきっぱりとうなずいた。藤津がらみの悩みじゃないことは、どうやらまちがいないようだった。


「なら、なんでそんな辛気くさい顔してんだ?」


 藤津のこと以外で、これほど紗菜子を悩ませることとはいったいなんだろう。忍は内心首をかしげながら、しっかり蒸らしたコーヒーに、ちいさく『の』の字を書くように、やさしくお湯をそそいでいく。


 視界のはしに見える紗菜子は、辛気くさいといわれたせいか、両手でもみほぐすように、ぐにぐにと頬をさすっている。


 そういうの、ほんとうにやめてほしい。うっかり顔がゆるんでしまいそうになって、忍はあわてて奥歯をかみしめた。


「あのね」

「うん」

「わたしが誘拐されそうになったこと、おぼえてる?」

「そりゃあ……」


 忘れられるわけがない。


 泣き叫ぶ紗菜子の声も。犯人に殴られて顔を腫らした紗菜子のおびえた瞳も。いまだ脳裏に焼きついている。あの事件が、忍を『お兄ちゃん』にした。


 しかし、思いもよらなかった話題である。


「わたしは……忘れちゃってんの」


 小学一年生のころの記憶がほとんどないこと。昨夜母親に聞いて、はじめて誘拐未遂事件のことを知ったこと。紗菜子はどこか不安げに、ポツポツと言葉を口から押し出している。


 紗菜子が口を閉じたところで、忍は淹れたてのコーヒーをそっとカウンターに置いた。時間かせぎのように、自分のぶんをゆっくりカップにそそぐ。なぜ今さら――というのが、正直な気持ちだ。


「それで、思いだしたいのか」

「うん」

「わざわざ、怖かったことを?」

「記憶がないって気づいちゃったんだもん。不自然な空白が、気持ち悪いの」


 そんなむかしのこと、おぼえていなくても不思議ではないと思う。忍から見れば、むしろ当然のような気がした。が、すぐに考えなおす。紗菜子がいっているのは、そういうたぐいの記憶ではない。あれほど怖い目にあったのだ。具体的なことはおぼえていなくても、事件に巻きこまれた衝撃くらいは残っていてもよさそうである。記憶が『ない』というのは、つまりはそういうことか。


 考えられるとすれば、そのショックがおおきすぎて、幼かった紗菜子はみずから記憶に蓋をしてしまった――というところだろうか。


「事件のことはおばさんに聞いたんだよな?」

「うん」


 事件のあと、しばらくは父親の顔を見ても泣くようになってしまったこと。おとなの男を怖がる一方で、もともとなついていた忍にはさらにベッタリになったこと。母親から聞いたという話を紗菜子はつらつらとならべていく。忍が補足するべきことは特になかった。


「ノブちゃんもいやな顔しないでそばにいてくれて、そうしてるうちに、お母さんから見ても事件前と変わらないくらい元気になったって……」


 そこまでいって、紗菜子は考えこむように言葉をとぎれさせる。


「どうした?」

「ううん」


 プルプルとかぶりを振った紗菜子は、思いきったようにカウンターに身を乗りだした。


「ね、ノブちゃん。事件とは直接関係ないことでもいいの。わたしが一年生だったころのことならなんでもいいから。ノブちゃんがおぼえてること、ぜんぶ教えてよ」


 とっさに、いやだ――と、いいそうになった。ひらきかけた口をどうにか閉じる。


 もしも思いだしたら、また男を怖がるようになるかもしれない。そうなったら、永遠に『お兄ちゃん』から卒業できなくなりそうだ。反射的にそんなことを考えてしまう自分にうんざりする。


 それにしたって、なぜ急にそんなむかしのことをほじくり返す気になったんだ――と、思う。思うのだけど。


「あーもう、わかった!」


 忍はガシガシと乱暴に髪をかきむしった。


「わかったから。その目をやめろ。穴があく」


 くりっとおおきな目に、じぃーっとみつめられると、なんかもう、あらがえないというか、勝てないというか、なんというか。目力がとにかくすごいのだ紗菜子は。この目には、子どものころから何度となくやられてきた。


 忍はちいさく息を吐きながら天を仰いだ。


 これで一生『お兄ちゃん』でいなければならなくなったらどうしよう。



     (つづく)



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