第33話 前途多難

 カフェレストランの個室にあらわれた藤津馴人ふじつなひとは、最初から動揺していた。紗菜子さなこと食事するつもりでやってきたのに男が一緒だったのだから、当然といえば当然だろう。そしてしのぶはその機をのがさなかった。藤津が落ちつきをとり戻すまえに、挨拶を装って紗菜子と婚約していると告げる。


 数秒後――


「つまりきみは、ぼくとこの彼と、ずっと二股をかけていたってことか」


 張りつめた空気を弱々しくゆがめた藤津の第一声がこれである。


 思わずとなりの紗菜子を見ると、彼女も忍を見ていた。おそらく、おなじことを考えている。


 この男はいったい、なにをいっているのだろう――と。


「ずっと、ぼくをだましていたんだな」


 紗菜子に向けられた悪意とひきつった表情。忍は、この男の底を垣間見たような気がした。安っぽいプライドを守るために考えだしたシナリオはさらに安っぽい。思った以上のクズだ。


 紗菜子を悪女に仕立てることで、彼女を捨てることができる。どうやら、この男は本気でそう思っているらしい。


 胸クソ悪いにもほどがある。が、これはこれでうまく別れられそうではある。紗菜子もそう思ったのだろう。ちらりと目顔でこちらをうかがう彼女に、忍もちいさくうなずいた。正直なところ、あまりにもあきれてしまって、すぐには言葉がでてこなかったというのもあるけれど、ひとまず藤津の出方を見ようと思った。



 *‐*‐*‐*‐*



 そもそも紗菜子のほうが『別れたい』といっていたはずだ。別れたいのに別れてもらえないと、忍のまえで大泣きするほど別れを望んでいた。だからこその今日である。しかし、そんな事実などなかったように、藤津は『きみにはがっかりだ』とかなんとか、どの口がいってんだといいたくなるような捨てゼリフを吐いて立ち去ろうとした。ある意味あっぱれな自己正当化である。だが、このまま帰らせるわけにはいかない。


「藤津さん」


 二度と紗菜子にかかわらないという言質をとるまで、帰ってもらっては困るのだ。


「奥さまはあなたのについてご存知なんですか?」


 言外に、『愛人は紗菜子だけじゃないよな?』という意味もこめてたずねれば、藤津はあからさまに目を泳がせた。察しは悪くないらしい。


「だましたというなら、あなたもおなじです。いや、既婚者であることを隠して紗菜子に手を出したのだからより罪が重い」


 ともすれば、いったいおまえは何股かけているんだ――と締めあげたくなるのをぐっとこらえる。


「なにがいいたいんだ」

「今日、あなたがここにきてからの会話はすべて録音させていただきました」


 忍はジャケットの胸ポケットからスマホをとりだした。動画モードに切り替えて藤津に向ける。これは、ここの店長である大学の先輩からのアドバイスだった。言質をとるだけではなく、今後の保険として明確な『証拠』を残しておいたほうがいい、と。


「やめろ」

「ここに誓ってください。もう二度と紗菜子には近づかない。そして、彼女を中傷するようなまねはけっしてしないと。そうでなければ、今日録音録画したデータをコピーして奥さまにお渡しします」

「脅迫するのか」

「めっそうもない。おたがいさまだってことですよ。紗菜子だけを悪者にして、あることないこと吹聴されたらたまりませんからね」

「……そんなことはしない」

「ほんとうですね?」


 ネットが発達した現代社会。紗菜子を貶めようと思えばいくらでもできる。そしてこの男はそれを『やりかねない』人間だ。この短い時間でも、それがよくわかった。万が一そんなことになったら……どうしてやろうか。


「ほ、ほんとうだ」


 コクコクと、藤津は顔をひきつらせながらうなずいた。せめてもの救いは、藤津がそこそこ心の機微に敏感だというところだろうか。


「その約束、忘れないでくださいね」


 忍はにっこりと笑顔をつくって、スマホをポケットにもどした。


「行こう、紗菜」

「うん」


 先に部屋を出て、廊下を三歩ほど進んで足を止める。


「さようなら」


 背後から、紗菜子の冷めた声が聞こえた。



 *‐*‐*‐*‐*



 日に日に春めいてきて、夜になっても空気がふっくらしている。


「失恋、できたか?」


 ふと思い出して、忍はとなりを歩く紗菜子を見おろした。店をあとにして、のんびりと駅に向かっているところだ。


 忘れていたのか、紗菜子は一瞬きょとんと忍を見あげて、それからふわっと笑顔になった。


「うん。できた。ありがとね、ノブちゃん」

「おー。じゃあ、やけ酒でも飲むか?」

「うーん……」


 ちいさく首をかしげて、紗菜子はそのままゆるゆると左右に振る。


「やけになる要素がない」

「ははっ。そっか」

「でも、おなかすいた」


 もう九時近い。


「おれも。なんかくってくか」


 この流れなら、誰でもそう誘うと思う。だが急に、ふたりを包む空気がもぞもぞと居心地悪そうに身悶えしだした。


「……うん」


 たぶん、紗菜子がうなずくまで、時間にすればほんの二、三秒だった。けれど、なんだかとてつもなく長く感じて、断られなかったことにホッとする。しかしこの空気はなんだろう。まさか紗菜子が忍を意識しているなんてことはないだろうし、だとすれば、忍が意識しすぎなのか。


 紗菜子はたった今、恋をおわらせたばかりだというのに。とんだ『お兄ちゃん』である。


 内心苦笑しながらも、忍は考えずにいられなかった。紗菜子を怖がらせずに『お兄ちゃん』をやめるにはどうしたらいいのか。やめられる日はくるのか。それにはまず意識してもらわなければならないわけだが――考えれば考えるほど絶望的な気分になる。


 前途多難である。



     (つづく)



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