第32話 できること

 もう不倫なんてやめたいのに、顔をあわせると流されてしまう。紗菜子さなこがせきを切ったようにそうまくしたてて、大泣きしたのはつい数日まえのことだ。


 いくらしのぶが『別れろ』といっても、紗菜子に想いが残っているかぎりどうすることもできない。できなかった。これまでは。だが、彼女が本気で別れたいというのなら、忍にもできることがある。簡単な話だ。自分たちがつきあっていることにしてしまえばいい。


 相手の男は妻子持ち。忍は当然ながら独身である。文句いわれるすじあいなどないし、それでもゴネるようなら、奥さんにバラすとでもいってやればいい。もちろん、ほんとうにつきあう必要などない。フリでいいのだ――という提案をしたわけだが、そのときの紗菜子の反応はといえば。


『ノブちゃんも男の人だった』である。


 ――わかっている。


 それはもう、ほんとうに、むかしからわかっている。いくらヤケになってホテルに誘ってきたりしても、それは忍が意識の外にいるからこその話だ。紗菜子が、忍を男として見ていないということくらい、いやというほど知っている。だがしかし。いくら承知していても、素でつぶやかれた言葉の威力といったら――なんというか、こう、心のやわらかい部分にぐっさりくるものだ。


 内心うなだれつつも、それはそれである。今は、紗菜子の不倫関係をいかにスムーズに清算するかを考えるのが最優先だ。そう忍が気持ちを切りかえたところで、紗菜子にふたたび大泣きされてしまった。しかしそれは、苦しみの涙ではなく、たぶん安堵の涙だったから、忍は好きなだけ泣かせておくことにした。


 そして落ちついたところで、無事採用されることになった恋人のフリ作戦の詳細を、ふたりで相談しながらきめていった。といっても、幼なじみであることや不倫の相談にのっていたことなどは、必要ならそのまま話せばいい。へたな小細工をすればそれだけボロが出る可能性が高まる。ウソはすくなく、作戦はシンプルなほうがいい。


 最終的に、唯一のウソである『恋人』設定は、一段パワーアップさせて『婚約者』でいくことにした。婚約者。それだけで忍が独身であることだけでなく、相手に勝ち目がないことも伝わるだろう。


 そんなふうにして作戦はわりとすんなりきまっていったのだが、気のせいか、その日からずっと、紗菜子の態度がどこかよそよそしい。ちょっと目があいにくいとか、なんとなく空気がもぞもぞしているとか、そんなレベルではあるのだが。


 仮にも一度は惚れた男と別れるのだ。緊張しているのか。あるいは、別れるためのウソに罪悪感でも抱いてしまったか。それとなく聞いてはみたのだが。『そ、そんなことないから! ぜんぜん! 大丈夫……!』と、まったく大丈夫ではなさそうな口ぶりで否定された。しかし、それ以上問いつめて、せっかくの決意をひるがえされても困る。

 結局、かすかな違和感のような、不安のような、よくわからない『なにか』は解消されないまま、その日を迎えることになった。




 *‐*‐*‐*‐*




 忍が男と対峙する場所としてえらんだのは、大学時代の先輩が店長をやっている、カフェレストランの個室だった。おそらく食事どころではないが、相手に怪しまれず、かつ、人の目を気にせずにこみいった話ができる場所となるとだいぶかぎられてしまう。


 飲食業に興味を持っていた先輩にとって、喫茶店の息子である忍はそれなりに貴重な情報源だったようで、大学時代からなにかと面倒をみてくれていた。現在も、規模はちがえど同業者ということで、情報交換をかねて年に何度か飲みに行く程度のつきあいがある。協力をあおぐのに、これほどぴったりな人はいない。ということで、表面的な事情――幼なじみの女の子につきまとっている男と話をつけるため――ということは、まえもって説明してあった。こちらが呼ばないかぎり、店員がくることもない。


 そうして。この五年、ずっと紗菜子を泣かせてきた男と、忍ははじめて対面した。




 *‐*‐*‐*‐*




 その男、藤津馴人ふじつなひとを見た瞬間、忍は直感した。こいつのは、紗菜子だけではない――と。におい。あるいは気配。ただ、『わかった』としかいいようがないのだけど。


 よく、女から見たらあきらかに演技だとわかるのに、なんで男は簡単にだまされるんだ、というような話を聞くことがあるけれど、それと似たようなものかもしれない。


 藤津馴人からは、たぶん男同士だからこそわかる……なんというのだろう。奥さんと紗菜子だけではない、複数の女性の存在がすけて見えるような気がした。


 もっとも、だからどうということはない。あらためて腹は立つ。というか、だいぶ煮えくりかえるけれど。それでも今日、紗菜子と別れてくれさえすれば、それでいいのだ。


 しかし――


 おそらくこの男にとって、女はプライドを満たすためのファッション、あるいは道具でしかない。そんな『道具』に、自分が捨てられるなんて、その薄っぺらいプライドがゆるさないのだろう。


 忍が婚約者だと聞いたとたん、なにやらトンチンカンなことをいいはじめた。



     (つづく)



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