ふたりの関係
第31話 期待と失望と
クリスマスのドタバタを越えて、
紗菜子は不倫をつづけていたし、忍はそれを苦い気持ちで見守るしかない。そんな、ある意味例年どおりの新年を迎えて、二月。
ついにその日がやってきた。
「紗菜――!」
ぽーんと投げられたブーケは、ゆるくカーブを描きながら、吸いこまれるように紗菜子の手におさまった。
ウエディングドレスに身を包んだ
会場を包むのは、二月のピリっと冷たい空気もはだしで逃げ出してしまいそうなほど甘ったるい、しあわせな雰囲気だった。
一方、トスではなく、名指しでパスされたかわいらしいブーケを胸に抱えた紗菜子は浮かない顔だ。眉間にむっつりとしわが寄っている。まったくもって結婚式には似つかわしくない。せっかくキレイなのに。よく似合っているラベンダー色のパーティードレスもだいなしである。
「さな坊」
忍は人さし指でトンと眉間をつついてみた。びくんと肩をふるわせた紗菜子は額を指先で押さえながら、おずおずと忍を見あげてくる。そのおおきな目は、迷子になったちいさな子どものように、心細げにゆれていた。
「グチならあとで聞いてやるから。今はうそでも笑っとけ。奈子ちゃん心配させたくないだろう?」
「うん。でも坊はやめて」
「じゃあ、姫」
「やめて。ちがう意味で恥ずかしい」
忍の友人であるトモに呼ばれるのは平気なのに。なぜダメなのかよくわからないが、トモの呼ぶ『ヒメ』は、字であらわそうと思うと、なんとなくカタカナっぽいからだろうか。
「んじゃ、殿?」
「なんでよ!」
「ははっ」
ツッコめる程度には元気らしい。それだけで、忍はすこし安心した。
結婚式というのは、おそらく女性が人生でもっともうつくしく輝く日だ。奈子はもともと美人なのだが、今日はちょっとたとえようがないというか、忍のなかには表現できる言葉の持ちあわせがないというか、ただただ『しあわせ』というものを具現化したようなうつくしさだった。そんな、きれいに輝く親友をまえに、心から祝えない自分を紗菜子はきっと責めている。
忍としては、これをきっかけに不倫なんてやめてほしいと願っているのだが、その一方で、ますます思いつめてしまうのではないかと心配でもあるのだ。
「ノブちゃん」
「うん?」
「わたしのこと、軽蔑してる?」
「どうしたいきなり」
「親友の、結婚式なのにね……」
あきれるほど、思ったとおりである。
「軽蔑なんかしてないよ。バカだなぁとは、思うけど」
「それってちがうの?」
「ちがう」
紗菜子は恋をしただけだ。軽蔑なんてするわけがない。するとしたら、それは紗菜子ではなく、年齢も職業もいつわって、そして既婚者だということまで隠して彼女に近づいた男のほうだ。
もちろん、既婚者だと知ってなお別れなかった紗菜子にも非はある。けれど、恋愛経験もなくて、男を見る目もなかった彼女の、はじめての『恋』を責めるようなこと、忍にはとてもできない。
「そっか」
「そうだよ」
ふ――っと、紗菜子が身にまとっていた空気が軽くなった。表情からも、気配からも、さっきまでのけわしさが消えている。なにかを決意したような、そのすがすがしい横顔が、忍の胸にかすかな期待感を抱かせた。
*‐*‐*‐*‐*
今度こそ、もしかしたら――と、思っていた。たぶん、紗菜子自身もそう考えていたのではないかと思う。親友のしあわせを心から祝えない自分の恋を、おわらせるつもりだったのだと。
だが、式から一週間もたったころには、どうやらダメだったらしいと忍は察していた。特別話題に出さなくても、また日に日に暗くなっていく紗菜子の表情を見ていればいやでもわかる。また振り出しか――と、すこし、いや、正直なところ、結構がっかりしていた。
しかし、さらに数週間が過ぎたある日。忍は、紗菜子があきらめてなどいなかったということを知った。
「吐きそうなくらい苦いコーヒーちょうだい」
浮かない顔で店にやってきた紗菜子がそんな注文をして。
「なんだ、失恋でもしたか」
半分冗談のつもりでそう返したら。
「そう、失恋したいの!」
思いっきり身をのりだしてきた。
「うん? 失恋した……のまちがい」
「じゃない! 失恋したいのよ、わたしは!」
「えーっと、ごめん、意味わかんない」
「だから、別れたいの! 不倫なんて不毛な恋、おわりにしたいの! だけど、顔見ちゃうとダメなの。流されちゃうの。口うまいのあの人」
いっきにまくし立てて、そして、ワッと泣きだした。
忍はとっさに言葉が出なかった。式から約一か月。紗菜子はたぶんずっと別れようとしていたのだ。それを、なんだやっぱりダメだったのか――と、勝手に失望していたきのうまでの自分を殴りたい。
いや、今はそれどころではない。
もしほんとうに、紗菜子が本気で心をきめたというのなら。
忍にも、できることがある。
(つづく)
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