第29話 元気なコーヒー

 ――最悪だ。


 ほんとうにもう、最悪としかいいようがない。


 目をまるくして絶句してしまった紗菜子さなこをほとんど問答無用で追い出して、しのぶは今にもあふれ出しそうななにかを冷たいシャワーで押し流した。そして、くしゃみが止まらなくなった。十二月も末だ。冬だ。危うく風邪をひくところだ。我ながらアホすぎて、立ち直れなくなりそうである。


 なんにしろ、こんなときは寝てしまうにかぎるとベッドにはいったのはいいが、やはり眠れるはずもない。胸にふくらむのは後悔ばかりだった。


 この季節、紗菜子がヤケになるのなんて、ある意味いつものことなのに。それも、相手が忍だからこそだと、わかっていたはずなのに。


 忍を信用している――というより、忍を男だと思っていない。あくまで『お兄ちゃん』で、危険がないとわかっているから、紗菜子は安心してヤケになるのだ。おかしないいかただが、まぎれもない事実である。もちろん、紗菜子自身は無意識だと思う。計算ずくでそんな駆け引きができるのなら、そもそも不倫にはまって泣いたりしていないだろう。

 両親をはじめ、まわりの人間から大切にされてきた紗菜子は、ほんとうの意味で自分を粗末にするようなことはしない。いや、できないのだ。ただ、大切にされてきたぶん、無防備なだけで。


 つまり、紗菜子の場合。感情的には本気でヤケになっているのだけど、自分をしんから粗末にあつかうようなことはできない。無意識にストッパーがかかるのだ。その結果。気持ちをぶつける相手として、男だけど男だと思っていない、安心安全な『お兄ちゃん』をえらんでいるというわけである。


 それくらい、十分承知しているつもりでいた。今年はいつも以上に荒れるだろうとも思っていた。それがこのザマだ。



 ――ほかにいくらでもやりようがあっただろうに。



 腕に抱きついてきた身体のやわらかさとか、シャツ越しにもはっきり伝わってきた体温とか。紗菜子は女で、忍は男で、わかりきっているその事実にカッとなって、なにかが焼き切れてしまいそうだった。とり返しのつかないことをしでかすまえに遠ざけたくて、方法を考えている余裕など、どこにもなかった。……そんないいわけをならべればならべるほど、おとなげない自分が露呈していくような気がして、ますます忍の気持ちはうなだれてしまう。

 結局、建設的な思考に向かうことなく、重苦しい一夜をすごした忍は、重苦しい心を抱えたまま朝を迎えた。




 *‐*‐*‐*‐*




 ランチにはおそく、夕食にはだいぶはやい午後三時すぎのティータイム。


「コーヒー、元気ない」


 もくもくとオムライスをたいらげて、食後のコーヒーを飲みながら、ボソっとつぶやいたのは、まるで狙いすましたかのようなタイミングで来店した中学からの友人、薄井友うすいともである。カウンターのはしっこで、手に持ったカップの中をじっとみつめている。


「さみしい味」

「…………」


 コーヒーを淹れるときは、透明な気持ちで淹れろ。


 それは生前、忍の父がよくいっていたことだ。


 悩んでいたり、落ちこんでいたり。そういう気持ちで淹れたコーヒーは、なぜか味まで『そうなって』しまう。


 人間だから、悩んだり迷ったりすることもある。それはいい。だけど、コーヒーを淹れる数分間だけは心を透明にして集中しろ。それは、料理をつくるときもおなじだ――と。


 それは思い出す必要もないくらい、忍の中にしみこんでいる基本的な心がまえ……の、はずだった。しかし今日は、それすらできていないらしい。忍には、自分がうわの空でいる自覚もなかった。重症である。


「ヒメも、元気なかった」


 はじめて顔をあわせたときから、トモは紗菜子をヒメと呼んでいる。なぜかと問えば『だって、モーリーのお姫さまでしょ?』と、あたりまえのようにいわれてしまった。当時小学生だった紗菜子も特にいやがらなかったので、そのまま定着してしまったのである。


「会ったのか」


 忍の言葉にトモはちいさく首をかしげた。


「すれちがっただけ」


 気づいてもらえなかったらしい。


 非常に影が薄いトモの、ちょっと切ないあるある話である。とても『稀代の天才画家』といわれている男と同一人物の話だとは思えないが、そこはトモなのでしかたがない。


「元気なコーヒー、飲みたい」

「悪い。たぶん、今日は無理だ」


 プロ失格だとは思うが。今の気持ちを正直にいうなら『コーヒーなんてどうでもいい』だ。ただでさえ傷ついている紗菜子をあんなふうに拒絶して、ほかでもない忍が傷つけてしまった。


「仲直りしないの」

「べつに、ケンカしたわけじゃねぇし」


 おまえはどこのガキだ。中学生か。と、自分にツッコミつつ。実際あれはケンカなのか――と、考えるとよくわからない。


 いずれにしろ、謝ってすむならすぐにでも謝りたい。が。どう謝るんだ――とも思う。そういう目で見てごめん? いえるわけがない。だいたい『そういう目って?』と、真顔で聞かれそうだ。恐ろしい。

 じゃあどうするんだ。と、昨夜から自問するばかりで、答えはいっこうに出てこない。


「理由、必要?」

「え?」

「悪いと思ったら、ごめんでよくない?」

「おれ、口に出してた?」

「ううん。でも、ヒメのこと考えてるときのモーリー、わかりやすいから」

「あ、そう……」


 あいにつづいてトモにまで『わかりやすい』といわれて。紗菜子にもバレているのではないかと忍は少々不安になってきた。

 しかしすぐに、それはないと思いなおす。もし忍の気持ちが紗菜子にバレていたとしたら、そもそもこんなことにはなっていない。はずだ。たぶん。


「元気なコーヒー、飲みたかった」


 心底残念そうにいわれて、さすがに申しわけなくなる。


「元気なコーヒー……」

「…………」

「モーリー……」


 捨てられた子犬のごとく、哀れを誘う目で見るのはやめてほしい。


「ねえ」

「だー、もう! うるせぇ! わかったよ……!」


 とりあえず一杯、集中しよう。そして、今日はすこし早めに店を閉めて謝りに行こう。ほとんど勢いだけで忍はそうきめた。



     (つづく)



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