転機
第27話 変わりはじめた風向き
洗い物など、ひととおり作業をおえて、ひと息ついたところで、ついでのようにゴシゴシと頬を両手でこすった。
――そんなにわかりやすかったのか。
すこし、むかしのことを思い出していただけなのだが。
*‐*‐*‐*‐*
カウンター越しに忍の目をのぞきこむようにして、愛はクスクスとおかしそうに笑っていた。
「今、
高校時代につきあっていた彼女の、突然の来店。その薬指には結婚指輪がはまっていた。忍が愛と別れてもう十年以上だ。あらためて、時間の流れがしみじみと感じられる再会だった。
そして、そう――この店も、紗菜子がいなければつづけていなかったかもしれない。
「ほらまた。むかしっから、なに考えてるのかさっぱりわからなかったけどさ。紗菜子ちゃんのこと考えてるときだけはわかるんだよね。忍くん、すっごくやさしい顔になるから」
愛の言葉に、別れた直後のなんともいえない罪悪感がぶり返しそうになったのだが、それを察したのかどうか。
「……あたしは、忍くんを好きになってよかったって思ってるよ」
コーヒーカップに視線を落として、そっとつぶやく彼女の頬はやわらかくゆるんでいたのだけど、あまりにも意外な言葉に忍は一瞬思考停止におちいった。
「忍くんと出会って好きになって、別れて失恋して。それがあったから、今のあたしがある。とってもいい踏み台になったよ」
「……踏み台」
「そう。踏み台」
ニカっと忍を見あげたそのいたずらっぽい笑顔は『だからもう気にしなくていい』といっているみたいだった。
実際そのとおりだったのだろう。忍がかたまっていると、愛はさらに言葉をつづけた。
「それでも気になるっていうなら……。あ、そうだ。このコーヒーおごってよ」
「え」
「それでぜんぶチャラ。ぜんぶいい思い出。ね!」
すごいな――と、素直に思った。これほどすがすがしい敗北感を味わったのは、もしかしたら生まれてはじめてかもしれない。だから忍は『ごめん』のかわりに、『ありがとう』といって愛を見送った。もちろん、コーヒーはおごった。
日が傾きはじめた商店街を歩いていく彼女の足どりは力強くて、さっそうと伸びた背すじがカッコよくて、心が、とても励まされた。
*‐*‐*‐*‐*
愛と会って、長いあいだ心の底にはりついていたしこりが、す――っと、とけていったような気がする。
そして。この日を境に、なにかが変わっていった。
ほんとうのところはわからない。気のせいといわれれば『そうかもな』と、うなずく程度のかすかな変化ではあったが。愛との再会を機に、うっすらと風向きが変わりはじめたような気がするのだ。
そんな漠然とした変化を漠然と感じている中で、唯一わかりやすくて、おおきかった変化は、紗菜子の親友、
*‐*‐*‐*‐*
学校などで男女別に背の順で整列するとき、つねに前から二番目だったという紗菜子と、おなじくうしろから二番目だったという奈子。ふたりとも、幼稚園時代からずっと『二番目』だったらしい。忍にはよくわからないが、その地味な共通点がふたりを近づけたらしく、中学でおなじクラスになって、あっというまに意気投合したのだという。
紗菜子と奈子でなこなこコンビ。そう名付けたのは忍だった。いや、そんな大層なものではない。
紗菜子が『ミモリ』に奈子をつれてきたのは、中学に入学してわりとすぐのことで、そのときに名前を聞いて『へぇ……じゃあ、なこなこコンビだな』と、そう軽くつぶやいたのである。思いつき以外のなにものでもなかったのだが、ふたりともそれが妙に気に入ったらしく、同級生たちに周知される程度には自分たちで広めていた。
すらりと背の高い奈子は、さっぱりはっきり、明るく前向き。一方、なにかと考えすぎてしまう、小柄な紗菜子はちょっと臆病なところもある。
見た目も性格も、なにもかもが正反対のようなふたりだ。けれど、だからこそ――なのだろう。おたがいの、たりない部分がぴたりとはまる存在のようで、ふたりは、おとなになっても変わらず親友だった。
その奈子が、結婚する。
相手の男性は、忍たちが暮らすもどか市のとなりに位置している、
奈子が就職した会社の先輩で、『すごいのは祖父であってぼくではない』というのが信条であるらしい本人は、いたってふつうの常識人だという。
しかし、紗菜子は当然としても、忍は自分まで結婚式に招待されるとは思っていなかった。
『紗菜子と一緒にきてください。ぜひ。一緒に!』
奈子がやたらと『一緒に』を強調していたのはどういうわけなのか。さっぱりわからなかったが、おめでたい席であることはまちがいないわけで、忍に断る理由はなかった。
紗菜子も親友のしあわせをよろこんでいた。ほんとうに、自分のことのようによろこんでいた。少なくとも、忍の目にはそう見えた。
だが、親友だからこそ。大切な友だちだからこそ。そのしあわせを目のあたりにして――紗菜子はたぶん、今の自分を突きつけられてしまったのだ。自分の恋が、けっして未来を描けないものだということを。否応なしに、真っ向から、突きつけられてしまったのだ。
(つづく)
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