第26話 紗菜子の不安と母のノート

 父につづいて母まで失って、ひとりになったしのぶがよほど腑抜けて見えたのか。あるいは、店をどうするか、いつまでもはっきりしない忍の態度にしびれを切らしたのか。その両方か。

 いずれにしろ、葬儀をおえて三日目くらいから、紗菜子さなこは高校から帰ると、毎日のように忍の家にかよってくるようになった。そして学校のこと、友だちのこと、むかついたこと、うれしかったこと――たわいないことを一方的にしゃべって、晩ごはんを一緒に食べて帰っていくのだ。


 それはまるで、紗菜子が小学生のころに戻ったみたいだった。しかし、そのころとは決定的にちがっていたことがある。


 小柄なのは相変わらずだったけれど、白い首すじから肩へのなだらかなラインとか、紅くふっくらとした唇とか、少女と女性のはざまにいる紗菜子からは、どこか危うい色香が感じられるようになっていたのである。


 やがて当然のように、彼女をそういう対象として見てしまっている瞬間があって、その事実は最初、忍をひどくとまどわせた。しかし、罪悪感にも似たうしろめたさを感じながらも、ただの『欲』とはちがう、自分のなかで見え隠れするようになっていた本音にも気づかされることになった。


 正直よかったのか悪かったのかはわからない。ただ、それを否定するだけの気力もそのときの忍にはなくて、ふ――っと、胸に落ちてきたものをそのまま受けいれていた。


 ――あぁ、好きなんだ。と。


 ひとりの女性として、紗菜子のことが好きなのだ――と。


 もっとも、自覚したからどう――ということはなかった。紗菜子はまだ高校生で、彼女にとって忍は『お兄ちゃん』だったから。


 自分の気持ちを自覚することと、それを相手に伝えることはまったくべつの話だ。万が一にも紗菜子を怖がらせるようなことはしない。その誓いが、忍にとってはなにより大切なことだった。そしてそれ以上に、今の関係を壊してしまうことが怖かった。父を失い。母を失い。その上もし紗菜子まで失ったら――


 この気持ちは秘めておくべきもの。忍はあらためて、そう思いさだめたのである。


 そうして、半月ほどもすぎただろうか。


 自分がだらしないばかりに、紗菜子に気をつかわせてしまっているという現状を、忍は今さらのように認識して、それを『情けない』と思うくらいには回復しはじめていた。


 このままではいけないと、ひとまず遺品の整理にとりかかった。そして――母の部屋で、数冊のノートをみつけたのだ。




 *‐*‐*‐*‐*




 カトウさん――コーヒー濃いめ。エスプレッソではなく、あくまでドリップで濃いものが好き。砂糖を大量につかうので、お帰りのあとで補充を忘れずに。


 キイさん――紅茶にそえるレモンは輪切りではなくひし形カットで。


 キウリさん――ハムサンドはハム抜き。そのぶん、きゅうり多めで(きゅうりサンド、メニューにくわえる?)


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 一冊目には、のびのびとおおらかな母の筆跡で、常連客の嗜好や注意点などがこまかく書かれていた。忍がすでに知っているものもあれば知らなかったこともある。また、二冊目には焼き菓子などデザートのレシピが、三冊目には料理のレシピが、それぞれくわしく書かれていた。紙の感触とか表紙のきれいさとか、おそらくこの三冊は比較的最近書かれたものだろうということが見てとれた。


 またそれと一緒に、すり切れていたり黄ばんでいたり、だいぶくたびれているものも数冊出てきた。こちらには、新メニューのアイデアとか、失敗したこととかうれしかったこととか、日記のような、メモのような、雑多な内容がしるされている。


 こまかく見ていくと、どうやら新しい三冊は古いノートをもとに『清書』されたものだろうということがわかった。それはおそらく、父が亡くなって、母が店主となってからだろうと思われたが、はたして、母自身のためだったのか。それとも――



「……ノブちゃん」

「あぁ、さな坊。おかえ……どうした?」


 日中はカギをしていないし、幼いころから自由に出入りしている紗菜子はいちいちチャイムなど鳴らなさい。最近はほんとうに毎日きているし、特に驚くことなく振り向いた忍だったが、部屋の入り口に立つ紗菜子の顔色を見てギョッとなった。真っ青である。


「やっぱり、店閉めちゃうの?」

「え……」

「商店街からも、出ていっちゃうの?」


 今にも泣きだしそうな顔で、声を震わせている紗菜子に面くらって、だけどすぐに思いあたる。


 押し入れのものをいったんぜんぶひっぱりだしたものだから、部屋の中はダンボールやプラスチックケースがそこかしこに積まれている。見ようによっては引っ越し準備をしているように見えるかもしれない。


「さな坊」

「もう、会えなくなるの?」

「いや、あの」

「やだよ、そんなの」


 みるみる涙がふくらんでいって、けれどこぼれないように目に力をいれているものだから、さっきまで真っ青だった顔が真っ赤になっている。なんというか、だいぶかわいいことになっていて、うっかり笑ってしまいそうになった忍は、あわてて顔をひきしめた。


「どこにもいかないよ」

「……だって」

「遺品整理してただけ」

「……ほんと?」

「ほんとだよ」


 そう断言しても、紗菜子はまだ不安そうである。どうも最近の忍は、それくらい『いなくなってしまいそう』に見えていたらしい。


 まったく。ほんとうに情けない。そして恥ずかしい。ちょっとまじめに反省する忍だったが。


 ――そうか。紗菜子は、おれがいなくなったら泣くのか。


 ふいに、そう思った。


 そんなこと、とっくのむかしに知っていたはずなのに。なぜだろう。妙にずしんと心に響いた。その瞬間、なにかがパ――ッとはじけたような気がした。そして――


 とうとつに。

 ほんとうに突然。


 視界がひらけた。


 確かにこの糸枝町いとしまち通り商店街はおわりに向かっている。だが今も半分の店が細々と営業をつづけていて、紗菜子の家の惣菜屋もそのひとつで、まだなにも、おわっていない。そう。おわっていない――のだ。


 両親が亡くなって、店が残された。いったい、なにをこだわっていたのか。店をやりながらでも勉強はできる。そもそも『今』店を閉めなければならない理由なんてどこにもないのだ――ということに、忍はこのときはじめて思いいたった。


 手続きさえすれば、すぐにでも再開できる店があって、常連客がいて、継続を願ってくれる人がいる。これほどめぐまれた環境、つくろうと思ってつくれるものじゃない。

 もちろん、この先も常連客をつなぎとめておけるかどうかは忍しだいだろうが。


「さな坊」


 つきものが落ちたみたいだった。


 母が残したノートを、忍はそっと閉じた。さらりと表紙をなでる。


「店、つづける」

「……え」

「つづけるよ。店」


 そう宣言して数秒。やっと安心できたのか、紗菜子の目からぶわっと涙があふれた。そして、バカだのアホだの悪態をつかれ、結局わんわん大泣きされることになったのである。



     (つづく)



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