第25話 思い出と未練

 大学にいたしのぶが着信に気がついたのは、その日の受講をすべておえて、なにげなく携帯をチェックしたときだった。留守電に残されていたのは、いつもおおらかな母のあわてふためいた声。着信時間は三十分以上もまえで、忍が病院にかけつけたときにはもう、父の命はその身体をはなれていた。


 悪い冗談だと思った。ほんとうに、冗談みたいだった。冗談としか、思えなかった。


 父はまだ五十七歳だった。健康診断だって、これまで一度もひっかかったことなどなかったのに。


 脳の血管が、破れてしまったのだそうだ。


 間の悪いことに、そのとき店には父しかいなかった。ランチタイムを過ぎて、母は買い物に出かけていたのだという。留守にしていたのはせいぜい三十分ほどだったらしいけれど。


 自分がもう少しはやく帰っていたら。

 そもそも出かけていなければ。


 母は、そう自分を責めずにはいられないようだった。




 両親は近所でも評判のおしどり夫婦だった。父の淹れる香り高いコーヒーと、母のつくる素朴でやさしい味の焼き菓子。それは、ふたりの仲のよさとあわせて商店街のちょっとした名物になっていたほどだ。息子の忍がこっ恥ずかしくなる――だけでは済まず、もはや毒としか思えないくらい。ほんとうに、仲がよかったのだ。



 最初、忍の中には驚きしかなかった。実感もなかった。だけど葬儀をおえて、気丈にも笑顔で店に立つ母を見ていたら、なんだか無性に悔しくなってきた。


 父が愛した店を守りたいという母の思いが痛いほど伝わってきて、だからこそ、さっさとあの世に逝ってしまった父に腹が立って、悔しくてしかたない。あれほどしつこく『大切な人を守れる人間になれ』といっていたくせに。


 できることなら、殴ってやりたかった。だけど、どんなに願ってもそれはもう不可能で、殴りたくても殴れない現実が、やりきれなかった。




 とても父のかわりにはなれない。それでもこうなってしまった以上、忍には店を継ぐ以外の選択肢がなくなったように思えた。だが、それに待ったをかけたのは、ほかでもない母だった。


 確かに、老いた住人たちばかりのこの商店街は、ゆっくりとおわりに向かっている。ここで暮らしている人々はそれでいいと思っている。無理に再生させる気もない。母もそうだ。けれど、忍はちがう。なにもかも、まだまだこれからなのだ。


『お店のことは気にしないで。あなたはあなたのやりたいことを、ちゃんとよく考えてきめて。自分の人生に責任をとれるのは、自分だけなんだから。後悔しないように。ね?』


 母はそう忍の背中を押してくれた。




 *‐*‐*‐*‐*




 母の言葉はありがたかったが、店を継ぐか独立するか、考えれば考えるほどに迷ってしまった。しかたなく、そこはひとまず保留することにして、忍は大学を卒業したら、何年かかけて日本全国のカフェや喫茶店をめぐろうと思っていた。『ミモリ』には母がいるし、独立するなら、どんな方向性の店にするのかも考えていかなければならない。また、資金も必要になる。


 どちらをえらぶにしても、各地の店で働けば、勉強しながら経験もつめる。まさに一石二鳥だ。紗菜子さなこと離れなければならないのだけが難点だったけれど、もしも自分のために忍が将来を妥協したなんて知ったら、かなしむのは紗菜子だ。自分の道をきめるのに、紗菜子を理由にしてはいけないと思った。



 就職もしないでふらふら遊びたいだけ――と、いわれかねないような選択だったけれど。母は理解してくれたし、賛成もしてくれた。



 なのに。



 母の心臓が、いきなり発作を起こした。

 まるで、忍が大学を卒業するのを待っていたみたいに。



 ――いったい、なにをしたというのだろう。



 父が。母が。自分が。いったいなにをしたというのか。なぜこんな目にあわなければならないのか。忍は、そう思わずにはいられなかった。けれど、どれほど疑問に思ったところで、現実はなにひとつ変わらない。



 突然の病は、母の命までも奪い去った。

 父の死から、まだ二年もたっていなかった。




 *‐*‐*‐*‐*




 あらゆる感覚が、麻痺してしまったようだった。


 その日、忍は買い物に出かけていて。連絡をくれたのは常連客のひとりだった。病院にたどりついたとき、母の身体はもう冷たくなっていて、その享年は父よりさらに若い、五十三歳だった。


 心からごっそり感情が抜け落ちてしまったみたいだった。父のときのような驚きも怒りもなく、葬儀をおえても感情はどこかに消えたまま。これでまた夫婦で暮らせるなら、それだけはよかったかな――と、ぼんやり思うだけで、たんたんと、ただ時間だけが流れていった。




 *‐*‐*‐*‐*




 店は閉めるつもりだった。父も母もいないこの店で、おわりゆく商店街で、自分がつづけていく意味があるとは思えなかった――のだが。


 ふたりほど、反対する人間があらわれた。



「えっ、やだよ。ノブちゃんがお店閉めちゃったら、わたしはどこでグチ吐きだせばいいのよ」


 ひとりは、なんともまぁ身も蓋もない。とんでもなく自分勝手な理由で。



「困る。ちゃんとおれの注文どおりにだしてくれるの、モーリーの店だけなんだから」


 もうひとりは、ある意味切実というか、ちょっとかなしい理由で。



 ここで『迷った』のは、忍自身にまだ未練があったから――なのかもしれない。



 両親が大切に育ててきた店だった。

 忍も物心つくまえから手伝ってきて。

 紗菜子もそこにくっついてきて。

 思い出も家族も、幼なじみも友だちも。

 ずっと、大切なものはみんな。

 いつだって『ミモリ』と共にあった。



 どうしたいのか。どうすればいいのか。きめたはずの心が見えなくて。しだいに考えるのもいやになって。ずるずると決断できないまま過ごしていたある日。まるで忍の迷いをみすかしたかのように、母が残した数冊のノートが出てきた。



     (つづく)



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る