第23話 そこにいるだけ

「……ごめん! もう無理!」


 はじけるような笑顔でパッとしのぶを見あげて。


 そして。


 最初からわかっていた――と、あいはいった。


 忍の心の真ん中に紗菜子さなこがいることは、最初からわかっていたと。

 それでもいいと思っていた。それでもそばにいたかった――と。


「がんばれると、思ったんだけどな……」


 そうつぶやいたほんの一瞬だけ愛の笑顔がくずれた。そのときになってはじめて、忍はその笑顔が強い意志によってつくられたものなのだということを知った。とっさにこみあげてきたのは『ごめん』という言葉。だけど忍は口から出る寸前でのどの奥に押し戻した。


 ごめん――


 それは、謝罪の言葉は、ゆるされるための言葉だ。ゆるしてほしいと相手に訴える言葉だ。たとえゆるされなかったとしても、口に出して楽になるのは忍であって愛ではない。

 なによりも、ここで謝ったりしたら、愛がこれまで忍を想ってくれたその気持ちまで踏みにじってしまうような気がした。



 結局忍は、なにもいえなかった。

 告白されたときも。

 別れのときですら。

 返せるものを、なにも持っていなかった。



「……大丈夫だよ。紗菜子ちゃん、忍くんのこと大好きだもん。忍くんが今までどおりにしてれば、多少時間はかかってもまたふつうに話せるようになるよ」


 今までありがとうときびすを返した愛は、背中越しにそんなアドバイスを残した。

 彼女をたよったのは忍だけれど、それでも、最後の最後にこんなことをいわせてしまうなんて。


 これまで、いったいどれほど愛を傷つけていたのか。こうなるまでまったく気がつかなかった自分が信じられなかった。



 ひきとめることなんて、できるはずもない。



 高校の卒業式を目前にひかえた三月。約二年つづいた愛との関係にピリオドが打たれた。




 *‐*‐*‐*‐*




「ふーん」


 聞いていたのかいなかったのか。相槌のようにも、ただの鼻息のようにも聞こえる声をわずかにもらして、薄井友うすいともは手をとめることなく、さらさらとスケッチブックに鉛筆を走らせている。





 トモは中学二年生のとき、忍のクラスに転校してきたのだが、なんというか――非常に、影が薄い。


 まず、そこにいても気づかれない。レストランなどで注文を忘れられる。そもそも注文をとってもらえない。


 そして、いなくても気づかれない。


 ものすごいマイペースで、およそ集団行動というものができないトモは、遠足とか修学旅行とかでもいつのまにかいなくなっている。けれど存在感がないものだから、集合して点呼をとるまで誰も彼がいないことに気がつかないのである。


 本人によれば、家族と出かけたときもよく存在を『忘れられる』らしい。なんとも筋金入りである。


 しかし、トモはべつに誰かを困らせたくて行方不明になっているわけではない。ただ、なによりも絵が好きで、絵に描きたいものをみつけると、ほかのことを忘れてしまうだけなのだ。そして、絵を描きはじめると、それ以外のものが目にはいらなくなってしまうだけなのである。特に隠れるわけでも逃げるわけでもないので、わりとすぐにみつかる。少なくとも忍にとってトモをみつけるのはそうむずかしいことではなかった。


 だから――というわけではないだろうが、中学のときだけでなく高校に進学してもずっとおなじクラスで、いつしか校外学習などできまって行方不明になるトモを連れ戻すのが忍の役目のようになっていた。

 ずっと紗菜子の世話をやいてきたからか、忍はむかしからよく『オカン体質』だといわれるのだが。そのイメージが、トモのおかげでより強く定着してしまったような気がする。……まったくもって心外である。



 それはともかく。



 トモは、猫みたいなやつだ。


 気まぐれでマイペースで、ベタベタされるのを嫌うけれど、人間が泣いていたり落ちこんでいたりすると、猫はすっと寄りそってくれる――という話はどこで聞いたのだったか。テレビだったかクラスの誰かだったか……忘れてしまったけれど、まさにトモのことだ――と、思ったのはおぼえている。


 いつも気の向くままにひとりフラフラしていて、人を待ったりつきあったりなんてまずしないのに。こちらが落ちこんでいたりすると、いつのまにかそばにいる。


 高校の卒業式だったこの日も、式がおわってからずっと忍からはなれようとせず…………家までついてきてしまった。


 そして。


 忍の部屋で、あたりまえのようにスケッチブックをひらいて絵を描いている。


 冷静に考える――までもなく、だいぶおかしな状況のはずなのだけど。

 相手がトモだとまったく違和感がないのはなぜなのだろう。

 やっぱり、影が薄いせいか。




 ……トモは、いるだけだ。『話せ』とも『聞く』ともいわない。ただそこにいるだけ。なのに、話したかったら話せばいいし、話したくなければ話さなくていい――と、そんなふうにいわれているような気がして。不思議と心がゆるんでしまう。


 なにより、トモは誰のどんな話を聞いたところで、否定も、肯定も、共感も、アドバイスもしない。だから――安心して話せるのかもしれない。


「ん」


 差し出されたスケッチブックには、今日卒業したばかりの教室で、ぐったりと机につっぷしている忍が描かれていた。相変わらず、めちゃくちゃうまい。窓からさしこむ光とか、ブレザーのシワとか、髪の質感とか。とても鉛筆一本で描いたとは思えない。


「スミにフラれて、ちいさなお姫さまにも避けられて、モーリー傷心の図」


 ……トモは忍をモーリーと呼ぶ。見守みもりの『モリ』らしい。スミは愛のことだ。三角みすみの『スミ』である。


「……スミは大丈夫」

「え……」

「大丈夫じゃないけど、大丈夫」

「……どっちだよ」

「絵、描いてたから」


 将来はデザイン系の道に進みたいといっていた愛と、ひたすら絵が好きなトモはおなじ美術部に所属していた。


「つらくても、スミには夢中になれるものがあるから。まだ大丈夫じゃなくても、ちゃんと大丈夫になる。だから、大丈夫」

「……そっか」


 トモが励ますようなことをいうなんて。めずらしいことがあるものだ。それほど落ちこんで見えた――ということか。



 ずっと、なんの疑問も持たずに紗菜子を最優先に考えてきて。それはきっとこの先も変えられないことで。そのことが深く愛を傷つけていたということに、まるで気がついていなかったという事実。


 彼氏とか彼女とかいうまえに、人として最低だったような気がして。確かに、気分はひどく沈んでいた。おもてには、出さないようにしていたつもりだったのだけど。


「……大丈夫じゃないのは、モーリーのほう」



     (つづく)


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