第22話 残ったもの
中学生くらいというのは、恋愛などへの興味が強くなる一方で、性的なことに対して非常に潔癖になる年ごろでもある――なんて、そんな余裕めいたことはおとなになってから思うのであって。当時の
とにかく、事情がどうあろうと、またその内容がどうであろうと『忍が恋人と外泊した』という事実が
文字どおり、忍は紗菜子が『生まれたとき』からそばにいて、もしかしたら、家族よりも長い時間を一緒に過ごしてきたのだ。紗菜子は忍にとって、そばにいるのがあたりまえのような存在だった。逆にいえば、紗菜子に避けられる――ということに、まったく免疫がなかったのである。
その結果。動揺してうろたえて――これまで以上に、頭の中が紗菜子でしめられてしまった高校三年生の秋。受験勉強の追いこみ時期ともかさなり、いつにも増して
*‐*‐*‐*‐*
思春期真っただ中の紗菜子は、少女であると同時に、まぎれもない『女性』でもあるのだ――と、忍はあらためて認識した。しかし、そんな紗菜子をはじめて『坊』と呼んだのもこのとき――避けられている真っ最中のことだった。
昼間だと逃げられるので、日が沈んでから
「さなー」
「…………」
「おーい」
「…………」
「さーなーこー」
「…………」
「さーなーちゃーん」
「…………」
「……さーなーぼー」
「……ぼー……?」
ほとんど無意識にこぼしたのだろう紗菜子のかすかな反応を忍は聞き逃さなかった。
「さ、な、ぼ、う」
「……ぼぅ……坊!?」
「あ、やっとこっち見た」
振り向け作戦成功である。
このときから、たまにふざけて『さな坊』と呼ぶようになった。
ほんとうに、最初はただ振り向かせたいだけだった。だが、やがて成長した紗菜子がときおり『女』に見えて、困ってしまって、しだいに『坊』と呼ぶことで自分を抑えるようになっていったのだ。
なんにしろ、このときも『坊』呼びきっかけでそれなりに話はしてくれるようになった。ただ、どうやら紗菜子自身はふつうにしているつもりらしかったが、忍から見るとかたいというか、ギクシャクしているというか、もとどおりというにはほど遠い状態だった。
これからいったいどう紗菜子に接していったらいいのか。年が明けて、春が近づいてきても状況はたいして変わらなかった。悩んで困りはてて、やがて忍は、無神経にも愛をたよったのである。
*‐*‐*‐*‐*
「……忍くんは、どうしてそこまで紗菜子ちゃんにこだわるの?」
愛の自宅近くの公園でひととおり話を聞いた彼女は、ほんとうに疑問に思っているようで、怒っている感じではなかったけれど、すこしかなしそうではあった。
ちゃんと話しておくべきだ――と思った。同時に、話してはいけないような気もした。理性と感情。頭と心。どちらにしたがうべきか迷って、結局自分から相談したのだから――と、誘拐未遂事件のこと。その後のこと。すべて話すことにした。
大切な人を守れる人間になれ――というのが、忍の父親の口癖だった。
その流れの中で、誰かに襲われたときなど、ほんとうにたすけが必要なときは『たすけて』ではなく『火事だ』と叫べ――と、いつもいわれていた。
いきなり『たすけて』という声が聞こえても、とっさに行動できる人間はあまりいない。巻きこまれることを恐れ、むしろ知らないふりをするかもしれない。だがすぐ近くで『火事だ』という声が聞こえたら、おそらく大半の人間はようすを見ずにはいられない。ほうっておいたら、なにもせずとも巻きこまれてしまう可能性があるからだ。
もうほんとうに、耳にタコとかイカとかエビとかできそうなしつこさで、子どもにちょっかいをかける不審者が近所に出没するようになってからは、父親だけでなく母親からもうんざりするほど聞かされてきた。しかしそのおかげか、紗菜子の悲鳴が聞こえてきたとき、考えるより先に『火事だ!』と叫んでいた。
結果的に、事件は未遂ですんだ。かけつけたおとなたちによって犯人もとり押さえられて、紗菜子もたすかった。
けれど、忍の中に残ったのは誇らしさでも満足感でもなく『恐怖』だった。
無理やり車に押しこまれそうになっている紗菜子を目にした瞬間、全身の血がザーッと足の先から抜けていったみたいに身体の内側からつめたくなった。走っているはずなのに、目に見えるものすべてがスローモーションのようになって、進まなくて、わずか十メートルの距離が届かない。あのとき、もしもおとながきてくれなかったら――。
泣き叫ぶ紗菜子の声が。犯人に殴られて顔を腫らした紗菜子のおびえた瞳が。
耳に、脳裏に、焼きついて離れない。
なぜこだわるのか――と、問われたなら『怖いから』あるいは『不安だから』と、答えるしかない。
大切な子が、理不尽な暴力にさらされる恐怖。
紗菜子がいなくなる恐怖。
紗菜子を失う恐怖。
あの日、紗菜子を守ると誓ったのは紗菜子のためだけじゃない。忍自身のためでもあったのだ。
いつかたのもしい恋人でもできて、忍なんてもういらないといわれるまでは、いつでも紗菜子がたよれる場所にいたい。たよってもらえる距離にいたい。エゴかもしれないけれど、必要なとき、手をのばせば届くところにいたいのだ。
「忍くんにとって、最優先の『女の子』はいつだって紗菜子ちゃんなんだね。今までも、これからも、ずっと。忍くんの最優先は紗菜子ちゃん」
怒るでもなく責めるでもなく、事実を事実のまま口にしただけというような、それはとても静かで、たんたんとした口調だった。
やっぱり、話してはいけなかったのかもしれない。そう思ったけれど、遅かれ早かれこうなることは避けられなかったのかもしれない――とも思った。
そして。
「……ごめん! もう無理!」
ふっきったようにパっと忍を見あげた愛の笑顔は、場ちがいに思えるほどに明るかった。
(つづく)
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