第19話 再会

 紗菜子さなこに妻子持ちの恋人ができて数年。


 彼女の両親はもちろんのこと。この糸枝町いとしまち通り商店街の住人たちも、紗菜子に『恋人ができた』のは知っている。しかし、それが『妻子持ちの男』だということまで知っているのは、おそらく忍だけだ。


 まさかこの、シャッター通りの数少ない生き残り『おかずの千井ちい』の看板娘が不倫しているなんてことになったら。よくも悪くも世話好きな商店街の住人たちがだまっているはずがない。知られていないと考えてまずまちがいなかった。


 いつまでこんな状態がつづくのか。もしかしてずっとこのままなのか。

 そんな恐ろしい可能性をうっかり考えては打ち消していたある日のこと。




 しのぶが洗いものをしていると、カランカランとカウベルが音をたてた。蛇口をしめて顔をあげる。


「いら……」


 思いもよらない人物の姿を認め、忍は声をとぎれさせた。


「あ――」


 とっさに「愛」と呼びそうになって口をつぐむ。そこにいたのは三角愛みすみあい

 高校時代、つきあっていた女性だった。


「……三角さん」

「愛でいいよ。もう三角じゃないし」

「え」

「じゃーん」


 カウンターをはさんで忍の正面に立つと、愛は芸能人がやるみたいに、顔の横で手の甲をこちらに向けてみせた。その薬指には結婚指輪がはまっている。


「……結婚したんだ」

「うん。っていうか、相変わらず反応うっすいなぁー」


 人間、ほんとうに驚いたときはそうそう派手なリアクションはとれないものである。まぁ確かに、むかしからあまり感情をおもてに出すほうではなかったかもしれないが。


「ごめん。ちょっと驚いて」


 ――じゃない。そんなことより先にいうことがあるだろうが。


 とうとつに舞いこんできた情報を脳が処理できていない。軽いパニック状態である。


 吐いて。吸って。


 愛に気づかれないようにこっそりと深呼吸をして、忍はあらためて口をひらいた。


「……おめでとう」

「……ありがと」


 にっこりとほほ笑んで、愛はカウンターのスツールに腰をおろした。


「コーヒー、飲ませてくれる?」

「もちろん」


 落ちついて考えてみれば、愛と別れてからもう十年以上の時間が流れている。結婚していたっておかしくないのだ。


「そっちはどうなの?」

「なにが?」

「なにって、紗菜子ちゃんのことにきまってるじゃない」

「ああ……べつに、どうもなってないよ」

「ええ? うそでしょ? いい加減くっついてると思ってたのに」


 コリコリとハンドミルでコーヒー豆を挽きながら苦笑するしかない。



 ――忍くんにとって、最優先の『女の子』はいつだって紗菜子ちゃんなんだね。今までも、これからも、ずっと。忍くんの最優先は紗菜子ちゃん。


 あのとき、忍はとっさに否定できなかった。否定できなかったということがこたえだった。


 ――……ごめん! もう無理!



 からりと笑ったその顔を、今もおぼえている。真夏の太陽のように力強くて明るくて。だけどその笑顔の中に、胸がやぶれそうなほどの痛みが見えた。


 あれほど強靭でかなしい笑顔を、忍はほかに知らない。


「……来月、アメリカに行くんだ。旦那の転勤で」

「……そうか。どれくらい?」

「予定は三年だけど、のびる可能性もあるみたい」


 フィルターにセットしたコーヒーにお湯をそそいでいけば、こうばしい香りが湯気とともに立ちのぼる。


「……よかった」


 忍はほとんど無意識につぶやいていた。


「え?」

「愛は今、しあわせなんだな」


 彼女の顔つきも雰囲気も。忍が知っていたあのころよりもずっと、おだやかでやさしい。


「そう見える?」

「ああ。見える」


 いつも笑顔だった愛の、こんなにもやわらかな笑顔を見るのははじめてだ。


「そっか。うん……そうだね。しあわせだよ」

「……よかった。ほんとうに」


 真っ白なカップ。淹れたてのコーヒーをそっと愛のまえに置く。


「ありがとう」


 あの強靭な笑顔を見たとき。忍ははじめて、無意識に、無自覚に、愛を深く傷つけていたのだということに気がついた。


 悔やんだところですべては手おくれで。詫びることもできないまま時間が過ぎて。


 なぜ今日、愛がここにきたのかはわからないけれど。彼女の中ではもうはっきりと、ふたりの関係が『過去』になっているのだろうということはわかった。渡米をひかえて、もしかしたらそれを確かめにきたのかもしれない。心おきなく未来に進むために。


 ――……未来。


 いつか、自分にも進める日がくるのだろうか。



「……おいしい」


 愛の口からこぼれた言葉に、自然と頬がゆるむ。



 ――……十年、か。


 はっきりと自覚したのはもっとあとだけれど。紗菜子をひとりの女性として意識するようになって――そう、もう十年以上たつのだ。



     (つづく)


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