Side:忍
誓いと後悔
第18話 あの日の誓い
あの日――
近所に出没していた不審者に誘拐されそうになって、
当時、紗菜子は六歳。
けれど。
それでも。
十一歳は十一歳なりに誓ったのだ。
――ずっと、さな、まもってくれる?
不安げに忍を見あげていた女の子に。
――ずっと、おにいちゃん?
すがるように忍のシャツをにぎりしめていた女の子に。
万が一にも怖がらせまいと。
ずっとずっと、『お兄ちゃん』でいるのだと。
あの日、誓ったのだ。
まちがっていたとは思わない。しかし、後悔もしていない――といえば、それはたぶんウソになる。
紗菜子が成長するごとに。自身が年をかさねるごとに。だんだん『お兄ちゃん』でいることが苦痛になってきて。だけどそこから踏み出す勇気もなくて。思えばずっと、『誓い』をいいわけにしてきたような気がする。
いずれにしても。紗菜子のいちばん近くにいられる、安心安全な『お兄ちゃん』という立場に甘んじて、大切なタイミングを逃してしまったのはまぎれもない事実だった。
*‐*‐*‐*‐*
――恋人ができた。
そう聞かされたのは紗菜子が大学二年生のときだった。
いつかそんな日がくるだろうと、忍もそれなりに覚悟はしていたつもりだった。しかしいざ現実になってみると、これが思った以上の衝撃で。じつのところ、そのときのことはほとんど記憶に残っていない。情けない話である。
忍と紗菜子は、今やすっかりシャッター通りになってしまったここ、もどか市の
そんな紗菜子に恋人ができた。生まれてはじめての恋人である。それは舞いあがるだろう。無理もないと思う。しかしそのおかげで『兄』のような存在である忍は、ことあるごとに『彼』の話を聞かされることになってしまった。
むかしから、親や友だちに話せないことでも忍になら話せると紗菜子はいっていた。なんとも自尊心をくすぐってくれる特別感であったのだけど、それが恋人のこととなると話はべつで。とても心中おだやかではいられなかった。
だからじつのところ、聞けば聞くほど相手の男がうさんくさく思えたのだけど、それが客観的な印象なのか、それとも自身の身勝手な嫉妬によるものなのか判断がつかず……後手にまわってしまった感がいなめない。
もっとも、仮に最初から相手の正体がわかっていたとしても、その時点で強く反対することはできなかっただろう。
もし、わずかでも忍が相手の男を非難するようなことをいえば、拒絶されることになるのは忍のほうだ。それくらい紗菜子は浮かれていた。注意するにしても、タイミングを見なければかえって意固地になってしまうと思った。それはほんとうだ。ただ、より本音をいうならば、そんなことで嫌われたくなかった――というのが正直なところである。
だからこそ。
つらいと紗菜子が泣くたび考えてしまうのだ。こうなるまえに、なにかできなかったのか――と。
*‐*‐*‐*‐*
恋人ができたと聞いてから数か月。舞いあがっていた紗菜子もようやく落ちつきをとり戻してきたころ。
魂が抜けてしまったような顔をして、ふらふらと『喫茶ミモリ』にやってきた彼女を見たとき、忍は自分の直感が正しかったことを知った。
職業も年齢もいつわって紗菜子に近づいたその男は、あげくのはてに妻子持ちだったのだという。
紗菜子のほかにも女がいるのではないか――と疑ってはいたが、さすがに妻子持ちだとは忍も思っていなかった。
しかし、そこまでウソにまみれていたら紗菜子の目もさめるのではないか――と、すこし期待したのだが。……甘かった。彼女はすでに落ちていた。
『好きなの。どうしようもないの。いちばんになれなくても、結婚できなくても、どうしようもなく好きなの』
恋愛経験ゼロ。当然ながら男にも免疫がない。紗菜子が落ちたはじめての恋は、底なしの沼だった。
以来。
クリスマスやバレンタインといった恋人たちのイベントがあるたび、紗菜子は忍の店にきては日付が変わるまでいすわるようになった。
『これからもおぉーつきあうぅ? ためにいぃー。奥さんコウコーしないとおぉいっけないんだぁーっていうのぉ。ねぇー? おっかしいよねえぇ? 奥さんとは別れるぅーっていってるくせにさあぁー』
『……飲みすぎだ、さな坊』
『ボーいうなぁーっ!』
不倫なんてやめろというのは簡単だ。けれど、やめろといわれてやめられるくらいなら、最初からこんなふうにはなっていないだろう。荒れるのだって、結局は相手の男が好きだからこそ――なのだろうし。
どうにか方向転換させようとして、ことごとく失敗して。ならば相手の男と直接話をつけてやろうかと考えたこともあるけれど、紗菜子に気持ちが残っているあいだはかえってこじらせてしまいそうで踏み切れなかった。
結局、泣く紗菜子に寄り添って、荒れる紗菜子をなだめることしかできない。そんな自分にも嫌気がさしてしまう。
そうして事態は停滞したまま、鬱屈とした日々を過ごすこと数年。
ある日、思いがけない人物が店をおとずれた。
(つづく)
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