第16話 おわりとはじまりの朝

 人通りのない深夜の商店街で、しのぶの声が冷たく耳に刺さった。



 紗菜子さなこにはそれだけでわかった。わかってしまった。だって今日は、『デート』だったから。今この瞬間まで、彼は一度も紗菜子を『坊』とは呼ばなかったから。


「このまえからずっと考えてた。ようやくわかったんだ。おれは……人の旦那るような女とはつきあえない」


 ――……そうだよね。誰だっていやだよね。あたりまえだよね。


「もう店にもこないでくれ」


 自分の気持ちどころか、『おめでとう』もいわせてもらえなかった。もう、この先ずっと口にできない。口にしてはいけない。その事実が痛い。



 ――これは、罰だ。身勝手なわたしへの罰。



 どうしてもっと早く気づかなかったのだろう。バカみたいに浮かれて。忍のやさしさに甘えて。



 ――もう、とり返しつかないのかな。だめなのかな。幼なじみでいることも、できないのかな。できないんだよね。ごめん。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……――――



 *‐*‐*‐*‐*



「――な! さな……! 紗菜子!」


 がくがくとからだを揺すられて、紗菜子はばちっと目をさました。目をさましたということはつまり眠っていたということで、じゃあ今のは――


「……ゆ、め?」


 ぼう然とつぶやくと同時に視界がぼやけた。夢。夢か。

 一回、二回と、ゆっくりまばたくと、水滴がこめかみに流れてまくらに落ちた。視界がクリアになる。


「そんなに怖い夢だったのか」

「ノブ、ちゃん……?」


 気づかわしげにのぞきこんでいるこの人は、はたして本物の忍だろうか。それとも、夢の中の忍だろうか。ほとんど無意識に、紗菜子は両手を伸ばして彼の首にぎゅうっと抱きついた。


 ――ノブちゃん。ノブちゃんだ。


 あったかくて、ゴツゴツしていて、細く見えるのに肩とか意外とがっしりしている。その体温にほぐされて、涙がぶわっと目からあふれだした。


「ノブちゃん」

「うん」

「ノブちゃん」

「うん、ノブちゃんですよ」

「……きょう」

「うん?」

「きょう、ノブちゃん、たんじょう、び」


 寝起きのだるさと涙で舌がうまくまわらない。


「うん」

「ひづけ、変わって、おめでとうって、わたし、いえた……?」

「うん。いってくれたよ」

「ほんと……?」

「ほんと。……おぼえてないのか?」

「ゆめ」

「うん?」

「ゆめで、いえなかった」

「ああ……なるほど。なんか、わかった」


 かすかに笑う気配がして、なだめるように、彼のおおきな手が紗菜子の背中をさする。


「夢の中のおれのせいで、そんなに泣いてるわけだ」

「ゔぅ……」

「いいよいいよ、無理にしゃべんな」



 *‐*‐*‐*‐*



 ひとしきり泣いてようやく少し落ちついてきたところで、紗菜子はとんでもないことに気づいてしまった。


 背中をさすっている忍の手のひらがふれている。抱きついている胸やおなかにも、忍が着ているTシャツがやはりふれている。足にふれるシーツも、だ。


 これは……

 これは……

 どうすれば――!


 今からだを離せば、明るい朝日がさしこむ中いろいろまる見えなわけで。だからってこのままずっと抱きついているわけにもいかない。


 ――ああ、なんか、いろいろ思い出してきた。


 おめでとうといって、ありがとうと返されて、プレゼントも渡した。それから『好き』と伝えようとして、けれど紗菜子が口をひらくまえに『先にいわせてほしい』と止められて、いってくれたのだ。


 好きだ――と。妹ではなく、ひとりの女性として。


 好きだ――と。


 それはきのう今日の話じゃなくて。忍にとっての紗菜子は、ずっとずっと、いつだってちゃんと『女の子』だったのだと。


 それから――……いや、だめだ。この先を思い出したら、たぶん羞恥で死ねる。


 とにもかくにも、この状況である。ここが忍の住居(お店の二階)であることは確かだ。だからどうした――って情報である。ああ、もう! どうしよう!


「紗菜」

「は、はい?」

「落ちついたんなら、おれ目つぶっとくから、服着ていいよ。ていうか、むしろ着てくれ。おれのために」

「そ、そうだよね。なんか、ごめん」


 昨夜脱ぎ散らかした服を手早く身につける。――なんか、なんか、空気がくすぐったい……! なんだろう、この気恥ずかしさは。というか……


 背中を向けている忍をチラリとうかがう。スウェットパンツとTシャツ一枚の気が抜けた姿であぐらをかいている。――わたしたち、ほんとうに……うわー、うわぁー、だめ! 思い出しちゃだめ……! からだに残ってる気だるさなんて感じちゃだめ――っ!


「服着た?」

「き、着た」


 忍の、見た目よりずっと広い背中からホッと力が抜けたのがわかった。それはそうだろう。起き抜けに素っ裸で抱きつかれたらたまらないと思う。


「今日、なにかしたいことあるか?」

「え、お店は?」

「休む。誕生日休業」

「あ、そうだよ……! 誕生日なんだから、ノブちゃんのしたいことしようよ」

「そうすると、一日中ベッドから出らんないと思うけど、いいの?」

「……じゃ、じゃあ、ふつうのデートがしたい」

「ふつうのデート」

「そう。映画観たり、お茶飲んだり、ふつうのカップルがするような、ふつうのデート。あと……ノブちゃんのプレゼント、買いたい」

「? もらったぞ?」

「うん。でも、それとはべつっていうか……えっと……」


 受けいれてもらえなかったときのことを思うと怖くて買えなかったから。なにか、恋人っぽいプレゼントがしたい。……恋人っぽいプレゼントというのがどんなものなのかわからないけども。


「ペアでなんか買うか」

「!」


 そう。そういうやつだ。キーホルダーとかストラップとか、あとはマグカップとかグラスとか、さりげなく『おそろい』で持てるもの。つかえるもの。そういうのがいい。


「で、おたがいプレゼントしあう」

「……!」


 なにもいってないのに! 忍がエスパー化してる……! まさに、そういういかにも『カップル』みたいなことをやってみたかったのだ。びっくりしてとっさに声が出ない。紗菜子はコクコクと勢いよく首をたてにふった。


「わかった。じゃ、そうしよう」


 ニコッと笑ったついでのように、かぷっと唇をまれた。


「……!?」

「コーヒー淹れてくるよ」


 いうが早いかその姿はもう寝室のドアの向こうに消えている。――は、はやわざ……!


 心臓がバックンバックンうるさい。こんな朝が続いたら、心臓が働きすぎて早死にするかもしれない。

 両手を胸にあてて、すーはーすーはー深呼吸してみる。



 ――……どうしよう。しあわせだ。



 ずっと、ずっと夢見ていたような気がする。目がさめた時に好きな人がそこにいて、明るい中で笑いあう。そんな日がくることを、夢に見ていた。


 同時に、憧れは憧れのまま、叶うことなんてないと思っていた。それがいざこうして現実になってみればこんなにも……うっかり泣けてしまうほどしあわせだなんて、そんなこと知らなかった。



 ほのかにただよってきたこうばしいコーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。



 忍はもう『お兄ちゃん』じゃない。紗菜子も『妹』じゃない。

 新しいふたりの関係が、今日からはじまる。



     (つづく)


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