第15話 デート

 奈子なこのアドバイスどおり、紗菜子さなこはこの一か月のあいだ『したいこと』だけを考えるようにしてきた。それでも不安になりそうなときや落ちこみそうなときは、電話やメールで奈子とおしゃべりして気をまぎらわせるようにした。もちろん新婚さんの邪魔にならないよう時間には気をつけたつもりだけど、それでもよくつきあってくれたと思う。今回ほど奈子の存在をありがたく感じたことはない。ほんとうに、持つべきものは気のおけない女友だちである。


 誕生日プレゼントはかなり迷ったけれど、まだなにも伝えられていないことを考えて例年どおりのものにした。ふだんしのぶが飲んでいるものよりちょっとだけ高級なコーヒー豆である。

 喫茶店の息子にコーヒー豆。最初はちょっとしたシャレのつもりだったのだけど、思いのほかよろこんでくれたものだから。毎年誕生日にはブランドや産地を変えてコーヒー豆をプレゼントするのが定番になった。紗菜子が高校生のころからつづいている、お約束みたいなものだ。


 ……もし。もしも気持ちを受けいれてもらえたなら。恋人らしいプレゼントはそのときにあらためて考えようと思っている。



 そうして長い一か月が過ぎた。



 夜七時。店を早じまいした忍とあえて駅で待ちあわせたのは、やっぱり『デート』だからだ。


 奈子がえらんでくれた服を着て、メイクもふだんより丁寧にして。だけどあんまり気合いをいれすぎてもひかれそうだし。そのへんのバランスとか、あれとかこれとかいろいろ気になってチェックしていたら時間ギリギリになってしまった。

 

「その服……」


 どうせなら、『待った?』とか『今きたとこ』とかやってみたかったのだけど。先にきていた忍は紗菜子に気がつくと、ぱちぱちと目をまたたかせてひとり言のようにつぶやいた。


「……変?」

「いや、かわいい」

「…………」

「花柄とかめずらしいなって思っただけ。似合ってるよ」

「ノブちゃん、そんなキャラだったっけ……?」

「なにが?」

「いや……」


 かわいいとか似合ってるとか。臆面もなくいっちゃうような人だったっけ……と一瞬思ったのだけど。


 そういえば奈子の結婚式でワンピースドレスを着たときも『きれい』といってくれたし、さらにさかのぼれば、成人式とか卒業式とか……なんか、わりとそういう人だったような気がする。

 今までたいして意識しなかったのは『妹』という鎧越しに聞いていたから――だろうか。いや、それにかんしては、紗菜子を『坊』と呼ぶ忍のせいでもありそうだが。


「紗菜?」

「坊は、つけなくていいの?」

「あぁー、それは……」


 忍は一瞬口ごもって、ふいっと紗菜子から視線をそらした。


「デートなんだろ? 今日は」

「うん」


 ――……なぜだろう。忍はいつもとたいして変わらないジーンズとジャケット姿なのに。やたらかっこよく見える。


「こ、この服ね! 奈子がえらんでくれたんだよ」


 これは、どうしたらいいのか。


「そ、そうなのか」

「うん……」


 ドキドキして。むずむずして。照れくさくて。


 ――あ……まずい。どうしよう。顔が。


「い、行こ!」


 勝手にゆるんでしまう顔をごまかすように、紗菜子はわざとらしいほど元気よく改札に向かった。



 *‐*‐*‐*‐*



 海の中を歩いているみたいなトンネル水槽。プカプカふわふわクラゲが漂っている巨大水槽。

 夜の水族館はしっとりと青い照明に包まれて、とても幻想的だ。


「寝てる……」

「寝てるなぁ……」


 腹ばいになったペンギンが足をなげだして眠っている。ほかにも羽をお腹のしたにしまってお行儀よく寝ているペンギンもいれば、ぐでーっと伸びきっているペンギンもいて、その無防備すぎる寝姿に思わず笑ってしまう。


 なんか……ほんとうにデートみたいだ。いや、デートなんだけど。夜の水族館なんていかにもな場所で、となりには忍がいて。その事実が不思議で、すごく不思議で、ほんとうに夢を見ているみたいだ。


 ――手、つなぎたいな……。


 酔いつぶれておんぶされたこともあるし、ふざけて抱きついたこともあるけれど、手をつないだのは――確か、小学生のころが最後だ。


「ノブちゃん」

「ん?」

「……手」


 今日でおわりかもしれない。手をつなぐどころか、話すことすらできなくなるかもしれない。そう思ったら、言葉が自然と口をついて出ていた。


「つないでいい……?」


 忍は虚をつかれたように数瞬かたまって、それからどこかぶっきらぼうに手を差しだした。……つないでいいらしい。


 ぴょんと飛びつくようにして、紗菜子はそのおおきな手をぎゅっとにぎりしめた。



 *‐*‐*‐*‐*



 ご飯を食べて少しお酒も飲んで、それからまたぶらぶら歩いて、とりとめのない会話が楽しくて。

 いつもの商店街に帰ってきたのは、日付が変わるすこしまえだった。



 月の明るい夜だ。満月にはすこしたりない、ぽってりした月が藍色の空に白く浮かんでいる。……今日がおわる。そして、今日でおわる。


 壊れておわるのか。それとも、ここからまたはじまるのか。



 ずっと大好きだった『お兄ちゃん』は、ほんとうはちゃんと男の人だった。気づいてしまって、困ってしまって、無自覚に閉じこめてきた気持ちがあふれてこぼれて、一度はじけとんでしまったフタはもうどうやってもしまらなかった。


 怖いとき。不安なとき。かなしいとき。つらいとき。

 うれしいとき。楽しいとき。しあわせなとき。


 どんなときも、忍は『お兄ちゃん』の顔で紗菜子のそばにいてくれた。だけど、それも今日でおわりだ。もう、妹のままではいられない。いたくない。



 意を決して口をひらこうとした、まさにそのとき。ずっとつないでいた手が、す――っとはなされた。





     (つづく)



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