妹をやめるとき

第13話 もう戻れない

 紗菜子さなこは『喫茶ミモリ』のカウンターで文字どおり頭を抱えていた。


 なんというか、もう……しのぶを鈍感だなんていえない。


 なぜあれで気づかなかったのか、我ながら理解に苦しむ。認めたくないとかそんなレベルではなかった。もちろんとぼけていたわけでもない。ほんとうに、本気で、男性としての忍は意識の外にあったのだ。かたくなに、ただひたすらに『お兄ちゃん』だと思っていた。


 でもほんとうは――


 好きだったのだ。ずっと、ずっと。いつからそうだったのかわからないくらい、ずっとまえから。


 そこから目をそむけつづけたあげく不倫に走るなんて――なんかもう、ほんとうに最悪である。奈子なこがあきれるのも当然だ。


「おい、今度はなんだ。大丈夫か」

「……あんま、大丈夫じゃない」


 忍はどうなのだろう。気づいていたのだろうか。いや、そこは忍のことだ。たぶん、きっと、気づいていない。……そうであってほしい。ほんとうに。切実に。


三角みすみさん、今どうしてるのかな……」


 ――……なにいっちゃってんの、わたし。


「……結婚したよ」

「――えっ!?」


 カウンターにつっぷしていた顔をガバッとあげる。


「去年だったかな。コーヒー飲みにきてくれてさ。そのとき聞いたんだ」

「結婚……」

「うん。しあわせそうだった」


 ――そっか……結婚、したんだ。


「ノブちゃんは、なんで彼女と別れたの?」

「……それは内緒」

「やっぱだめか」


 今ならこたえてくれるのではないか――と、少し期待したのに。もっとも、知ったところでどうということもないのだけど。


 ――じゃなくて! ほんとうにもう、どうしよう。


 くてっと、またもカウンターに上体をふせる。


 気づいてしまった以上、ぜんぶ忘れて今までどおり! というわけにはいかない。いや、もうすでに無理になっている。恋人のフリをしたあの日から、忍が『お兄ちゃん』ではなく、『男の人』に見えて困って、右往左往した結果の今なのだから。


 ――好きなら好きってはっきりいえばよかったのに。ほんとうに好きならつまらないこだわりは捨てなきゃ。


 かつて、幼かった自分がいい放った言葉がまさか、今ごろになってはね返ってくるなんて。


 なんか、泣きそうだ。もうどうしたって戻れないのに。気持ちを伝えたらもっと決定的に壊れてしまいそうで。この心地いい、兄妹のような関係を手放すのが怖くてたまらない。だけど、このままではきっと、ずっと苦しいままだ。


 なんでこんなことになったのだろう。……考えてもむなしいだけなのはわかっているのだけど。どうしても……どうしたって、不倫してきた事実がズッシリと重くのしかかってくる。



 クリスマスやバレンタイン、ホワイトデーなど――馴人なひとと過ごせない恋人たちのイベントがある日、紗菜子はこの『ミモリ』にきては、閉店までどころか日付が変わるまでいすわった。

 そういうときも忍はいやな顔ひとつせず、つらいと泣く紗菜子に辛抱強くつきあってくれたのだが……こうして思い出してみれば、子どものころとまったくおなじではないか。


 ただ、紗菜子の自業自得であるという点は決定的にちがっていたし、荒れて自暴自棄になってホテルに誘ったときはさすがに怒っていたけれど。それでも、馴人のことで忍に責められたことはこれまで一度もなかった。

 ただ、それはきっと『お兄ちゃん』だったからだ。これがもし。もしも、ひとりの女性として紗菜子を見たなら――どうだろうか。不倫するような女、やっぱりいやなのではないだろうか。


「なぁ、ほんとうにどうしたんだ?」

「…………」


 今――ここで帰ってしまったら、きっと一生このままだ。進むことも戻ることもできずに立ちすくんで勝手に気まずくなったまま、まともに顔も見られない。


「……来月」

「うん……?」


 来月は――五月は忍の誕生日だ。


 好きな人の誕生日は、前日の夜からデートして日付が変わった瞬間に『おめでとう』といいたい。


 そんな乙女な夢を語っていたのは高校生のころだったか。忍にも話したことがあるけれど――おぼえているだろうか。


「来月――!」


 バンッとカウンターに手をついて身をのりだす。こうなったらもうヤケクソだ。


「十七日の夜!」

「お、おう?」

「わたしとデートして……!」

「えっ」

「来月の十七日の夜! わたしとデートして!」


 切れ長の涼しげな目をまるくして、忍はひらきかけた口をそのままとじた。単純な驚愕に困惑がまざり――そして。


「十七日の夜――か」


 ゆっくりと噛みしめるようにつぶやいた。


「そう」

「デート」

「うん」


 それは自分の逃げ道をふさぐためにえらんだ言葉だった。問答無用で覚悟をきめるため。これくらいしないと、いつまでも踏みだせない。


 忍はふたたび口をとじ――時間にすれば、おそらくほんの数秒のことだった。けれど、紗菜子にとっては永遠にも思えるくらいに長く感じる数秒で。心臓が口から飛びでそう……というのは、きっとこういうことをいうのだと思った。

 だって、たぶん忍は気づいている。紗菜子が十七日――彼の誕生日前夜に誘ったその意味を。その目が、声が、そう告げていた。



 そして永遠のような、数秒の沈黙がやぶられる。



     (つづく)



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