第12話 わかったこと

「さなぁー。おーい。……さあぁなああぁー!!」


 耳もとで叫ばれて紗菜子さなこはハッとわれに返った。


「び、びっくりした。なによ」


 机の脇にあきれ顔の大木奈子おおきなこが立っている。


「それはこっちのセリフよー。いくらなんでもボーっとしすぎでしょ」


 教室にほかの生徒の姿はない。……そうだった。奈子が日直の仕事をおえるのを待っていたのだった。


「今日は朝からずーっとうわの空。どうしたのよ」

「そんなこと……」


 ない。というのはさすがに苦しいか。


「ほれほれ。お姉さんに話してみなさい」


 前の席からイスを持ってきた奈子は、机をはさんで紗菜子の正面にすとんと腰をおろした。机にひじをついて、キリッと目尻のあがった猫目をいたずらっぽく輝かせている。


「お姉さんて……わたしのほうが一か月お姉さんなんだけど」

「そうだっけ。紗菜ちっちゃくてかわいいから、つい」


 男女別に背の順で整列するとき、紗菜子はいつも前から二番目だった。そして入学式で知りあった奈子は、いつもうしろから二番目だったという。ふたりともずっと――幼稚園からずっとである。そんな地味な共通点がふたりを近づけた。中学生になってそろそろ半年。身長差は約十センチ。今ではすっかり親友だ。


「なんか悩みごと?」


 冗談めかして身をのりだす奈子だけれど、そこにはわずかな心配もにじんでいる。――そんなに変だったのか。と、どこか他人ごとのように思いながら、紗菜子はゆるゆるとかぶりを振った。


「そんなんじゃないよ」

「じゃあ、なに考えてたの?」


 考えていたこと。なんだろう。いい加減お兄ちゃん――ノブちゃん離れをしなきゃ……ということだろうか。



 *‐*‐*‐*‐*



 一年半近くまえ、忍に彼女ができた。


 もっともそれは、紗菜子がお膳立てしてやったようなものなのだけれど。忍に片想いしていた三角愛みすみあいをたきつけて、告白するように仕向けたのはほかでもない紗菜子である。


 予想どおりふたりはうまくいった。いや、三角愛が押しきったというべきか。


 最初忍はひたすら困惑していたらしい。告白されるなんてまったく想像していなかっただろうから無理もない。さらに、好きか嫌いかと問う三角愛に『嫌いではないけど、好きでもない。そもそもよく知らないし』と、ばか正直に答えたというのだからなんとも忍らしい。

 それでも、彼女はがんばった。とりあえず『おためし』でいいから、まずは『知るため』につきあって――と迫ったのだとか。このへんの話は三角愛から直接聞いた。彼女の背中を押した紗菜子に、律儀に報告してきたのである。


 紗菜子はそれを聞いた日から『喫茶ミモリ』にかようのをやめた。が、紗菜子が気をつかってきにくいなら――と、今度は忍のほうからちょくちょく顔を見にくるようになったので、兄妹のような関係性は結局ほとんど変わらなかったのだけど。


 なんにしてもそれから約一年半。忍と三角愛のつきあいは今もつづいている。それはいいのだけど、ふたりはおとといの日曜日、家に帰ってこなかった。外泊である。朝帰りである。……といってもわざとではなく、遠出デートした先で電車がとまり、帰ってこられなくなった――というだけなのだけど。送電トラブルかなんかだったらしい。

 紗菜子がその話を聞いたのはきのうのことだ。特に誰かが吹聴してまわるわけでもないのに、なにかあると翌日にはたいてい耳に届く。人間関係が密な商店街ネットワークの恐ろしいところである。


「それでショック受けてたわけか」

「……ショック? なんで?」

「なんでって……ええぇ?」


 特別ショックを受けたわけじゃない。忍は『お兄ちゃん』だし、お兄ちゃん以外のなにものでもないし、恋人がいるのだし、紗菜子がショックを受ける理由なんてどこにもない。

 ただ――今までいちばん近くにいた、その『お兄ちゃん』がとられてしまったみたいで。急に遠くに行ってしまったみたいで。よくわからない、喪失感のようなものが胸にぽっかり口をあけている。


「あのさ、紗菜」

「うん?」

「……あー、いや……そうだよね、見守みもりさん、彼女いるんだもんね……」


 もごもごブツブツ……しばらくのあいだ口のなかでなにごとかつぶやいていた奈子は、やがてなにかを決意したようにすっくと立ちあがった。


「……わかった! 今日のところはなにもいわない」


 まえの席にイスをもどした奈子にがしっと腕をつかまれる。


「帰ろ! お姉さんがアイスおごったげる」

「いやだから、お姉さんはわたし……」


 反論むなしくグイグイとひっぱられ、ほとんどひきずられるようにして下校した帰り道。問答無用とばかりに奈子がコンビニで買ってくれた、チョコレートでコーティングされたちょっとリッチなアイスクリームは、甘くてつめたくて、とてもおいしかった。



 *‐*‐*‐*‐*



 ノブちゃん離れをしようと決意したから――というよりも、どんどんおとなになっていく忍とどう接したらいいのか、考えれば考えるほどにわからなくなって。その結果、紗菜子は忍を避けるようになった。

 けれどそこは狭い商店街のご近所さんである。そうそう避けつづけることもできず、そもそも本心から『離れたい』と思っていたわけでもないので、忍のほうから会いにきてくれればうれしいし、いったん顔をあわせてしまえばわりとふつうに話せたりして――結局『ノブちゃん離れ』は、じつにあっさり挫折したのである。


 そうこうしているうちに忍は大学に進学して、いつのまにか三角愛とも別れていた。別れた理由は知らない。忍には『話したくない』ときっぱりいわれてしまったし、無理に聞いていいことでもないと思ったから。

 しかし、紗菜子にもわかったことがある。それは、恋が『おわる』ものだということ。そして、別れた恋人は、その瞬間から他人になるということ。そんなあたりまえのことに、紗菜子はなぜかひどい衝撃を受けた。そして思った。自分は『妹』でよかった、と。


 忍が『お兄ちゃん』であるかぎり。紗菜子が『妹』でいるかぎり。おわらない。変わらない。そのことにホッとしていた。


 なぜ『おわる』関係にショックを受けたのか。なぜ『変わらない』関係にホッとしたのか。つきつめることのないまま、紗菜子は思考を停止させた。そうしないと、なにか大切なものを失ってしまいそうで――怖かった。




 そして――



 現在――




 忍の『はじめての彼女』のことから記憶をたぐって、あれもこれもいろいろ思い出してしまった紗菜子は、『喫茶ミモリ』のカウンターで頭を抱えていた。


 ――あれで気づかないとか……わたしバカ? バカなのわたし?


 しかも、無意識のうちにみずから『お兄ちゃんフィルター』を重ねていたなんて。


 ――もう、もう、ちょっとこれ……どうしよう……!



     (つづく)



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