第9話 行方不明の初恋
おとなの男性を怖がり、父親の顔を見ても泣きだしてしまうようになった
家族だから、紗菜子にひどいことなんかしない。今までもこれからも、ずっと家族だから。怖いことなんてなにもない。
忍も当時まだ十一歳だったけれど、家族だから――なんて、ほんとうはなんの根拠にも理由にもならない、ということくらいは知っていた。けれどほかにどういえば紗菜子が安心できるのか――このとき必要だったのは、現実論ではなく『紗菜子に届く言葉』だった。
――おじさん、紗菜のことぶったことある?
――ううん。
――おおきな声で怒ったことは?
――ない。
――だろ?
埋もれていた記憶が、ゆるりゆるりと掘り起こされていく。
そう――父は見た目だけでなく性格もとてもおだやかな人で、声を荒らげるようなことはほとんどない。
あのころだって、紗菜子を叱ることはあっても感情にまかせて怒鳴るようことはまずなかった。
そして、ひとつひとつ、辛抱強く、紗菜子がどれほど大切にされているかを思い出させてくれたのが忍だった。
――紗菜は、おじさんが嫌い?
――ううん。
――じゃあ、好き?
――うん。
――おじさんもおんなじ。紗菜のことが大好きなんだよ。もちろん、おばさんも。
そうして今また、忍の話を聞くうちにさぁっと霧が晴れるみたいに、くっきりと脳裏に浮かびがってきたのは、あの『ひっかかり』だった。
――ノブちゃんは……?
ああ……そうだ。やっぱり。
――おれ……?
やっぱりあの『ひっかかり』は、現実にあったのだ。
――さなのこと、好き?
――うん、好きだよ。
――……こわくならない?
――え?
――おっきくなっても、ノブちゃんこわくならない?
――ならないよ。
――ほんと?
――ほんと。
――かぞくじゃなくても?
――家族じゃなくても。
――おにいちゃんだから?
――ああ、うん、そうだな。
――もう、こわいひとこない?
――うん。もう怖いやつはいない。もしきても、だいじょうぶだよ。おれがそばにいるから。
――ずっと、いっしょ?
――うん、一緒。
――ずっと、さな、まもってくれる?
――守るよ、ずっと。
――ほんとに?
――ほんとに。
――ずっと、おにいちゃん?
――……うん。ずっと。
このときからだ。ことあるごとに、忍を『お兄ちゃんだから』というようになったのは。もともと兄妹のような関係ではあったけれど、このときから――紗菜子はより強く意識的に振る舞うようになったのだ。そしていつしかそれが『ふつう』になって、忍は紗菜子にとって『お兄ちゃん』なのだという認識だけが残った。
次から次へと――記憶が芋づる式に掘り起こされていく。
紗菜子が一年生のときに忍は六年生。当時の五歳差はおおきくて――特に男の子たちの遊び場になっていた小学校の裏山は、一年生の女の子が立ち入るには少々ためらわれるくらいのけわしさがあったのだけど、そういうとき忍は迷わず紗菜子を優先してくれた。
そう――どうやら誘拐未遂事件がきっかけだったらしいが、あのころはほんとうに忍にベッタリで、いつも紗菜子がくっついていくものだから、忍はよくクラスの友だちにからかわれていた。
それでも忍は堂々と、どんなときも紗菜子を優先してくれた。友だちよりも。自分よりも。それがうれしくて気持ちよくて、なんともいえない優越感があった。いわゆる女王さま気分というやつか。ただ、あんまりにもわがままがすぎると、怒らないかわりに忍はとてもかなしそうな顔をした。それを見るのがいやで、精神状態が安定してくるにつれてわがままはひかえるようになっていった――のだけれど、今でもついつい甘えてしまうのは、当時のなごりかもしれない。
なんにせよ忍は懐が深すぎるというか、心が広すぎるというか――たぶん、相当無理をしていたのだと思うけれど、無理をしてでも紗菜子の『やさしいお兄ちゃん』でいてくれようとしたのは確かだ。
ずっと一緒。ずっと守る。
今思えば、その約束をはたすため――忍は忍なりに腹をくくっていたのだ、きっと。
「その節はご迷惑を……」
「……は?」
「……なんでもない」
「いや、なにヘコんでんの」
気づかわしげな声にちらりと見あげるとばちりと目があって、あわてて顔ごとそっぽを向く。『お兄ちゃんフィルター』がかかってしまった理由は、わかった。わかったけれど、じゃあここからどうすればいいんだろう。
――だって紗菜の初恋、
思いあたるふしはな……くもないのだけど。でも、なんかちがうような。ちがわないような。よく、わからない。そもそも過去に『恋』の記憶がなかったから、就学前までさかのぼってしまって事件のことを知ったのだし。
――なんか……最近こんなんばっかだな。
わからないとか、もやもやするとか。うじうじうじうじ我ながらうっとうしいったらない。もうこのさい、初恋も
「……ノブちゃんにはじめて彼女ができたのっていつだっけ」
「なんだよ、いきなり」
「いいから」
「……高一……いや、高ニだったかな」
――……だよね。
よく、おぼえている。なにしろその『彼女』をたきつけたのはほかでもない、当時小学生だった紗菜子なのだから。
(つづく)
次回から過去のお話。『気づかなかった初恋編』がはじまります。
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