第8話 空白のすぐそばに

 誘拐されかけた――


 昨夜母親から聞いたショッキングな出来事を紗菜子さなこはおぼえていない。けれどその記憶の空白のすぐそばに、なにかひっかかるものがあった。

 そしてそのひっかかりのなかに、しのぶの顔が見えた。連れ去られそうになった紗菜子を救ってくれたのも彼だったという。


 はたしてあのひっかかりは、現実にあったことなのか。忍に聞けばはっきりするだろうか。はっきりさせたほうがいいのだろうか。どうするべきか。どうしたらいいのか。もやもやと迷いながら紗菜子は『喫茶ミモリ』へやってきた。


「ありがとうございましたー」


 最後のお客を送り出して、忍はドアにクローズの看板をかけた。夜九時。『ミモリ』の閉店時間である。紗菜子がやってきたのは八時すぎ。カウンターの定位置に落ちついて、かれこれ一時間たつ。


「さな坊」

「な、なに?」


 一時間たつのに、いまだなにも聞けずにいる。――お客さんいるし。と、もっともらしい、いいわけをコーヒーと一緒に舌の上で転がしていたのだけど。

 その『いいわけ』が、帰ってしまった。……気まずい。


「コーヒー、もう一杯飲むか?」

「いただきます……」


 いつまでもこうしているわけにはいかない。わかっている。わかっているのだ、そんなことは。だから口をひらこうとして、だけどいざとなると、なにをどう聞けばいいのかわからなくなって……ということをこの一時間繰り返している。努力はしているのだ、これでも。


「あの男のことか?」


 コリコリとハンドミルでコーヒー豆を挽きながら、どこか気づかうような忍の声は完全にかんちがいしている。


「ち、ちがうよ! そんなわけないじゃない!」


 ぶんぶんかぶりを振って否定する紗菜子であるが、この五年というもの『悩み』といえば馴人なひとのことしかなかったのだから、かんちがいされてもしかたないような気もした。つい先日別れたばかりだし。いや、だけど――


「あの場にいてなんでそんなこと思うかな」


 紗菜子の『婚約者』のフリをしたのは、ほかならぬ忍だというのに。


「じゃあ、ほんとにちがうんだな?」

「ちがうよ」

「因縁つけられたりしてないな?」


 ――そっち……!


 どうやら忍は、プライドをつぶされた馴人が紗菜子になにかしてきたのではないかと心配していたらしい。


「してないよ」

「なら、なんでそんな辛気くさい顔してんだ?」


 辛気くさい。それは心外である。紗菜子は頬を両手でもみほぐすように、ぐにぐにとさすってみる。

 べつに落ちこんでいるわけじゃないし、つらいわけでも苦しいわけでもない。ただ『わからない』から、もやもやしているだけだ。ついでになんか意味なくそわそわして緊張しているだけだ。


「あのね」

「うん」


 忍にうながされると、それまで出てこなかった言葉がするっと出てくるのはなぜだろう。これもまた、子どものころから変わらない。そうして、話さなくていいことまで、話してしまったりすることもあるのだけど。


「わたしが誘拐されそうになったこと、おぼえてる?」

「そりゃあ、忘れらんねぇよ」

「わたしは……忘れちゃってんの」

「…………」


 小学一年生のころの記憶がほとんどないこと。昨夜母親に聞いて事件のことを知ったこと。ポツポツと話す紗菜子の言葉を、忍はさえぎることなく最後まで聞いてくれた。淹れたてのコーヒーが、静かに紗菜子の前に置かれる。自分のぶんをカップにそそぎながら、忍はどこか迷うように口をひらいた。


「それで、思い出したいのか」

「うん」

「わざわざ、怖かったことを?」

「記憶がないって気づいちゃったんだもん。不自然な空白が、気持ち悪いの」


 正確にいえば、少しちがう。事件のことを思い出したいわけじゃない。ただ、おそらくは『お兄ちゃんフィルター』がかかってしまった原因がそこにある。ほんとうに知りたいのはそこなのだ――とは、さすがに本人にはいえないけれど。


「事件のことはおばさんに聞いたんだよな?」

「うん」

「それなら、おれから話せることはなにもないと思うけど」

「事件のあと、おとなの男の人を怖がるようになったって聞いた。お父さんの顔見ても泣くようになったって」

「ああ……そうだったな」

「もともとノブちゃんにはなついてたけど、事件のあとはもっとベッタリになったんでしょ?」

「そうかもな」

「ノブちゃんもいやな顔しないでそばにいてくれて、そうしてるうちに、お母さんから見ても事件前と変わらないくらい元気になったって……」


 ふと、思う。たとえ思いこみだとしても、紗菜子にとって忍はずっと『お兄ちゃん』だった。けれど、じゃあ忍にとってはどうなんだろう――と。やっぱり『妹』なのだろうか。


「どうした?」

「ううん」


 なんだろう。肯定されても否定されても傷つきそうな気がする。紗菜子はプルプルとちいさくかぶりを振ってカウンターに身を乗り出した。


「ね、ノブちゃん。事件とは直接関係ないことでもいいの。わたしが一年生だったころのことならなんでもいいから。ノブちゃんがおぼえてること、ぜんぶ教えてよ」


 忍はどこか渋い表情で口をつぐんだ。


 幼かった紗菜子は、おそらく恐怖から記憶に蓋をしてしまったのに、それをこじあけることになるかもしれない話をするのがいやなのだろう。が、ここまできたら紗菜子も引きさがれない。忍が『うん』というまで居座るつもりだった。


 ふたりとも黙りこくったまま、一分か二分か――先に音をあげたのは忍だった。ガシガシと乱暴に髪をかきむしる。


「あーもう、わかった! わかったから。その目をやめろ。穴があく」


 その目とはどんな目か。子どものころからよくいわれる――おもに忍に――のだけど、自分ではよくわからない。どうも『じっと見るな』ということらしいが、紗菜子としてはいわれるほど凝視しているつもりはないし、人と話すときは相手の顔を見ろと教えられてきたし――で、困惑するしかない。

 でもたぶん、忍が了承してくれたのは『その目』のおかげなので、特に直さなくてもいいのかもしれない。


 当の忍は、あきらめたようにちいさく息を吐きながら天を仰いでいた。



     (つづく)



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