第7話 ずっと

 奈子なこの新居へ遊びに行った翌日。


「ねぇ、お母さん。ちょっと……聞きたいことがあるんだけど」


 夕食をおえて、母が洗った食器を布巾ふきんでふきながら、紗菜子さなこは迷い迷い切り出した。父は入浴中だ。


「なぁに? あらたまって」

「うん……あのね、わたしが小学校一年生ぐらいのとき、なにか……なかった?」


 こんな聞きかたになったのは、記憶の空白部分にどこか不吉な気配を感じていたからかもしれない。


 はじかれたように振り返った母は、お皿を手にしたままかたまってしまった。水道からジャージャーと流れる水音がやたら耳につく。

 まばたきもせずに、つぶらな瞳をさらにまんまるくしているこの母の反応こそが、紗菜子の予感が正しいことを裏付けていた。


 ……と、思ったのだがしかし。


「……やだあんた、おぼえてないの?」


 やがて母の口から出てきたのは、驚いたようなあきれたような――緊張感からはほど遠い声だった。ぽかんとまぬけに響く。


「え……?」

「あらまぁ……そう」


 ふっくらと小柄な母は、パチパチと思い出したように目をまたたいて洗いものを再開した。


「そりゃあねぇ……あのころは、できるだけはやく忘れたほうがいいと思って、あたしたちもなにもなかったようにふるまってきたけど……まさかほんとうに忘れてるなんてねぇ……」


 ひとりごとのようにつぶやく母。


「……ねぇ、なにがあったの?」


 紗菜子の声にわずかないらだちがにじんだ。


「誘拐されそうになったのよ」


 買い物にでかけたのよ。とでもいうような調子で軽く告げられた母の言葉に、今度は紗菜子がかたまった。



 *‐*‐*‐*‐*



 母の話によると、当時この付近で子どもにちょっかいを出す不審者が頻繁に出没していたのだという。

 遠くから手まねきされるという比較的平穏な――といっていいのかはわからないが――ものから、車に押しこまれそうになったという物騒なものまで。いずれも未遂ですんだのは、犯人の男が子どもたちに警戒心を抱かれやすい雰囲気だったから――なのだという。見た目は中肉中背の平凡な中年男だったらしいが、いわゆる『ヘビのような』と形容されるタイプの、薄気味悪い雰囲気があったのだそうだ。


 紗菜子も『ちょっかい』を出された子どものひとりだった。そしてそれは『物騒』なほうの出されかただった。というか、なかなかうまく子どもをつかまえられず、いらだった犯人がついに暴力的手段に出たときのターゲットにえらばれてしまったのが紗菜子だった。


「がんばったのよー、あんた。暴れて騒いで。その声を最初に聞きつけたのが忍ちゃんでね。あんたもがんばったけど、犯人がつかまったのはあの子の機転のおかげね」


 学校でも注意されていたし、町内でも警戒していたから、不審者のことは忍も当然知っていた。そして聞こえてきた悲鳴が紗菜子のものだということもすぐにわかった。だから、忍はとっさに『火事だ!』と叫びながら声が聞こえてきた方向に走ったらしい。


 いきなり『たすけて』という声が聞こえても、すぐさま行動できる人間はあまりいない。むしろ、巻きこまれることを恐れて知らないふりをする人間のほうが多いだろう。けれど、すぐ近くで『火事だ』という声が聞こえたら、大半の人間はようすを見ずにはいられない。自分がなにもしなくても勝手に巻きこまれてしまう可能性があるからだ。だから、ほんとうにたすけが必要なときは『たすけて』ではなく『火事だ』と叫べ。忍は常日ごろから両親にそういい聞かされていたのだという。それが、役に立った。


 忍の声に反応した人々がようすを見に出てみれば、怪しげな男が泣き叫ぶ子どもを車に押しこもうとしている。

 まともな人間であれば無視できない状況だ。おかげで犯人はその場でとり押さえられた。


 そして紗菜子は、暴れたからたすかった――と、いっていいだろう。暴れて叫ぶことで時間をかせげた。危機を知らせることもできた。ただ、暴れたことで犯人を怒らせてしまった。逆上した犯人に殴られ――それ以降、紗菜子は『おとなの男』を怖がるようになったのだという。


「お父さんの顔見ても泣くようになっちゃってねぇ……」


 フフッと思い出し笑いをする母に深刻な雰囲気はまったくない。きっと、紗菜子に泣かれて泣きそうになっている父――というのは、はたから見ているぶんには、ほほ笑ましい光景だったのだろう。

 父も男性としては小柄なほうで、顔立ちも柔和。およそ怖がられるようなタイプではないのである。


「それが、一年生のとき?」

「になるちょっと前ね。入学式の一週間くらい前だったかしら」

「……なんでおぼえてないんだろう」

「……それくらいショックだったのね」


 そういうことなのだろうか。そういうことなのだろう、きっと。


「もともと忍ちゃんにはなついてたけど、事件のあとはほんとうにもうベッタリになってねぇ。忍ちゃんもいやな顔ひとつしないでずっとそばにいてくれて。そうしてるうちに、いつのまにか事件前と変わらないくらい元気になって、あたしたちもホッとしたのよ」


 母の話を聞いても空白は空白のまま、紗菜子の記憶がもどることはなかった。けれど空白のすぐそばで、なにかがひっかかった。



 ――……


 ――…………


 ――……………………


 ――だいじょうぶだよ。おれがそばにいるから。


 ――ずっと、いっしょ?


 ――うん、一緒。


 ――ずっと、さな、まもってくれる?


 ――守るよ、ずっと。


 ――ほんとに?


 ――ほんとに。


 ――ずっと、おにいちゃん?


 ――……うん。ずっと。



     (つづく)


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