第6話 お兄ちゃんフィルター
桜がその花片をおしげもなく散らしはじめた四月。
二か月ほど前に結婚式をあげた人好夫妻の新居――紗菜子が暮らしているもどか市のおとなり、
ダイニングテーブルで、紗菜子がおみやげに買ってきたショートケーキをぱくりと口にいれて、奈子は「んー」と首をかしげた。
「それって、悩む必要なくない? こたえはとっくに出てるでしょ」
「そんなこと」
「あります」
――……なんだろうこのバッサリ感。いつもより奈子がきびしいような気がする。
やっぱり不倫していたなんて話をしたせいだろうか。それともうしろめたさがそう感じさせているだけか。
とはいえ、やっぱり新婚の奈子に聞かせるようなことじゃなかった気がしてちょっぴり落ちこむ。そんな紗菜子の気持ちに気づいているのかいないのか、奈子は思いがけない方向から思いがけない言葉をなげてよこした。
「だって紗菜の初恋、
「…………えっ!?」
「……なんでそこで驚くのよ」
――そりゃあ、驚くでしょう……。
馴人と別れたあの夜から、どうにもギクシャクしてしまうというか気まずいというか……もしかしたらそう思っているのは紗菜子だけかもしれないのだけど、とにかく今までみたいに忍と気安く話せなくなってしまった――という話をしていたはずなのに。なぜ初恋。しかもその相手が忍だなんていわれたら……驚くにきまっている。
「だって、ノブちゃんは『お兄ちゃん』だし……」
「そう自分にいい聞かせてあきらめたんだよね」
「…………」
――あきらめた? わたしが? なにを……?
「……もしかして、無自覚だったの?」
まじまじと紗菜子を見る奈子の目が見知らぬ珍獣と出くわしたような、宇宙人をみつけたような……
「……その残念な子を憐れむような目やめて」
「うわぁ……なんか、見守さんが気の毒になってきた」
「なんでよ」
「なんで、って………はぁああぁぁ……」
肺がからっぽになってしまうのではないかと心配になるくらい、がっくりとうなだれながら特大のため息をついた奈子は、キッと顔をあげるとビシッとフォークを紗菜子につきつけた。
「わかった。とりあえず初恋の話はおいとこう。でも、今は? 幼なじみとかお兄ちゃんとかそういうのぜんぶとっぱらって、ひとりの男性として見守さんのことどう思ってんの」
「どうって……」
これまでずっと『お兄ちゃんみたいなもの』と思ってきて、人にもそういってきて、それ以外の可能性なんて考えたことがない。
「……なんでそこまで『お兄ちゃん』フィルターかかっちゃってんだろうね」
「え……?」
「子どものころはともかく、五歳くらいの年の差なんて、おとなになればあってないようなものじゃない。世の中には五十五歳下のお嫁さんもらっちゃうような
それはあれだ。人好さんのお
しかし、『お兄ちゃんフィルター』とは。なんだか妙にしっくりくる。あの日、婚約者のフリ作戦をおえた帰り道で、ほかでもない紗菜子自身が疑問に思ったことだ。
――幼なじみで、お兄ちゃんで、家族よりも家族みたいな人で、ドキドキとかそわそわとかするような相手じゃない。そうじゃなきゃ、そばにいられない。
そんなふうに考える自分が、不思議だった。
「そこまでかたくなに思いこむには、なにかきっかけがあったと思うのよ。わたしが紗菜と知り合ったときには、もう今とあんまり変わらない感じだったよね?」
それは、中学生のときから成長していないということだろうか。
――……そうじゃない。そういうことじゃない。わかってる。なんだろう。なんていうか……思考が逃げる。
「こうなったら正直にいうけどね、紗菜」
「う、うん?」
「わたしはずーっと、それこそ高校生くらいのころからずうぅうーっと、こいつらさっさとくっつかないかなぁーと思ってたの」
「……うっそぉ……」
「うそじゃありません」
そんなこと、今日の今日までまったく知らなかった。
「ねぇ、紗菜。一度ちゃんと考えてみなよ、見守さんのこと。『お兄ちゃんだから』で思考停止させないでさ。ね?」
「……うん」
うなずきながら、紗菜子はざわざわとわきあがってくる、どこか不吉な感覚に困惑していた。
*‐*‐*‐*‐*
――だって紗菜の初恋、見守さんでしょ。
帰り道、奈子の言葉がずっと頭のなかでぐるぐるしていた。
初恋。初恋。はじめての恋。はじめてできた恋人は、よりによって既婚者だったけれど。はじめての恋は、はたしていつ誰にしたのだったか。
記憶をたぐって、たぐって、たぐって――そして小学校一年生のころの記憶がほとんど残っていないことに気がついた。
べつに気にするようなことではないのかもしれない。そんなむかしのこと、おぼえていなくても不思議はない。けれど、小学校にあがる前――たとえば、ランドセルを買ってもらったのがうれしくて、あっちこっち見せびらかせに行ったこととか、店の商品をつまみ食いしてこっぴどく叱られ、子どもの足でも徒歩数分で行ける忍のところに『家出』したこととか――たぐっていけば就学前の記憶もわりと鮮明に残っている。それが、一年生のときだけ断片的にも残っていないのはどうしたわけか。小学生になることをとても楽しみにしていたのだ。入学式のことくらいおぼえていてもよさそうなのに。
単純な記憶ちがいだろうか。可能性は高い。なにしろ二十年近く前のことだ。きっと、記憶がまざっていたり前後していたりもしている。だけど……。
――そこまでかたくなに思いこむには、なにかきっかけがあったと思うのよ。
初恋。
お兄ちゃんフィルター。
なにかが、ひどくねじれている。そんな気がした。
(つづく)
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