第5話 さようならのあとで
――ノブちゃんも男の人だった。
そんなあたりまえの事実を認識してからというもの、なにか……なにかがおかしい。
その『なにか』がわからないまま、今日がやってきた。
五年間、ズルズルとつづけてきた
あらゆる面でこちらが主導権をとるために、場所も忍の知人がやっているカフェレストランの個室である。今日はおそらく食事している場合ではないだろうけれど、そこは規模はちがえど同業のよしみということで店側とは話がついているらしい。
馴人は特にあやしむことなくやってきた。
「つまりきみは、ぼくとこの彼と、ずっと二股をかけていたってことか」
――……うん?
一瞬なにをいわれたのかわからなくて、思わずとなりの忍を見ると、彼もこちらを見ていた。その目のなかに、おたがいおなじ気持ちが浮かんでいるのを認める。
なにいってんのこの人。
なにいってんだこいつ。
*‐*‐*‐*‐*
作戦はシンプルに。へたな小細工はしない。ウソが多くなればなるほど説得力は薄れ、わずかなほころびから失敗する可能性が高くなる。だから、幼なじみであることや、紗菜子が忍に馴人とのことを相談していた事実は、必要ならそのまま話す。
そして、『恋人』になった経緯もシンプルなほうがいい。相談しているうち、のっているうちに、ただの幼なじみではいられなくなった――という、そのへんの石ころなみにころころ転がっていそうなエピソードのほうがリアルだろう、と。ふたりで話しあいながら『設定』を決めていった。
また、唯一のウソである『恋人』設定は、一段パワーアップさせて『婚約者』でいくことにした。婚約者だと紹介するだけで、忍が独身であること、馴人に勝ち目がないことが伝わる。
その先制パンチはおそらく成功した。が、紗菜子はなんだか釈然としない。
「ずっと、ぼくをだましていたんだな」
――だから、なぜそうなる。
釈然とはしないが、これはこれでうまく別れられそうだからあえて否定はしない。ちらりと忍をうかがうと、彼も同意するようにかすかにうなずいた。
馴人は笑顔をつくることに失敗して、顔をひきつらせている。
――……そうか。
おそらく馴人は忍を見た瞬間、自分の『負け』を悟ったのだ。恋人だとか婚約者だとかいう肩書にではなく、男として本能的に『負け』を認めてしまった。
だって忍は――かっこいい。近すぎて、紗菜子はこれまであまり意識したことがなかったけれど、まちがいなく忍はかっこいい。それは顔立ちだけじゃなくて、雰囲気というか、姿勢というか、立ち居振る舞いというか――そういうものぜんぶひっくるめてかっこいい。
しかも、馴人のどこか『つくった』感じがするかっこよさにくらべて、忍のそれは自然体だ。ふたりがならんでいると、それがよくわかる。
しかしそんなこと、プライドの高い馴人が素直に受けいれられるわけがない。だからきっと、もっとも自身が傷つかないですむ『シナリオ』をとっさに考えだした。『悪い女にだまされていた、かわいそうなぼく』というシナリオを。それは同時に、自分から紗菜子を捨てるかっこうの口実になる。
――わたし……なんでこの人のこと好きになったんだろう……。
魔法か呪いか。わからないけれど、これまで紗菜子を縛りつけていた『それ』が今この瞬間、ふわっとゆるんでどこかに消えた。
*‐*‐*‐*‐*
そもそも紗菜子のほうが『別れたい』といっていた事実などなかったみたいに、『きみにはがっかりだ』とかなんとか捨てゼリフを吐いて立ち去ろうとした馴人を忍がひきとめた。
「藤津さん。奥さまはあなたの恋愛関係についてご存知なんですか?」
「な……」
「だましたというなら、あなたもおなじです。いや、既婚者であることを隠して紗菜子に手を出したのだからより罪が重い」
「なにがいいたいんだ」
忍はジャケットの胸ポケットからスマホをとりだした。
「今日、あなたがここにきてからの会話はすべて録音させていただきました」
いいながら動画モードに切り替えて馴人にスマホを向ける。
「やめろ」
「ここに誓ってください。もう二度と紗菜子には近づかない。そして、彼女を中傷するようなまねはけっしてしないと。そうでなければ、今日録音録画したデータをコピーして奥さまにお渡しします」
「脅迫するのか」
「めっそうもない。おたがいさまだってことですよ。紗菜子だけを悪者にして、あることないこと吹聴されたらたまりませんからね」
「……そんなことはしない」
「ほんとうですね?」
――なんだろう。この迫力。
表情も声も口調もおだやかなままなのに、有無をいわせない凄みがある。こんな忍を見るのは紗菜子もはじめてだった。
「ほ、ほんとうだ」
気圧されたように馴人がうなずいた。
「その約束、忘れないでくださいね」
忍はにっこりとほほ笑んで、スマホをポケットにもどす。
「行こう、紗菜」
「うん」
忍について部屋を出ようとして、紗菜子はふと立ちどまった。肩ごしに見た馴人は顔色をなくしている。
不思議なほど、なんの感慨もわいてこない。
「さようなら」
馴人との五年が今、おわった。
*‐*‐*‐*‐*
「失恋、できたか?」
忍がふいと思い出したように、となりを歩く紗菜子を見おろした。店を出てぶらぶらと駅に向かっているところだ。
そうだった。と、紗菜子も思い出す。今日の作戦は、紗菜子が『失恋したい』といったことからはじまったのだった。
「うん。できた。ありがとね、ノブちゃん」
「おー。じゃあ、やけ酒でも飲むか?」
一瞬考えて、紗菜子は首を左右に振った。
「やけになる要素がない」
「ははっ。そっか」
「でも、おなかすいた」
もう夜の九時近い。
「おれも。なんかくってくか」
「……うん」
――やっぱり。やっぱり、なにかが変だ。なんか、なんか……そわそわする。
この感覚を紗菜子は知っている。だけどそんなはずはない。相手は忍だ。幼なじみで、お兄ちゃんで、家族よりも家族みたいな人で、ドキドキとかそわそわとかするような相手じゃない。そうじゃなきゃ、そばにいられない。
そこまで思って、紗菜子は『あれ?』と、首をかしげた。そうじゃなきゃ、そばにいられない――?
――なんでわたし……そんなふうに考えるようになったんだっけ……?
(つづく)
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