第4話 失恋したい

 東西に伸びる商店街の、ちょうど中央付近にある喫茶ミモリ。二代目マスターは初代マスターの息子であり紗菜子さなこの幼なじみでもある、見守忍みもりしのぶがつとめている。商店街の入口近くに店をかまえる『おかずの千井ちい』も相当あれだが、『喫茶ミモリ』も、なんというか――そんまんまの店名である。しゃれた名前よりわかりやすい名前、というのがこの商店街のモットー……なのかどうかは不明であるが、現在残っている店も閉まっている店もみんな似たりよったりではある。


 配達の帰り、気がついたら紗菜子は『ミモリ』の前に立っていた。まぁ、少しくらい休憩していってもいいよね――と、いいわけがましく心のなかでつぶやいて、よくいえばレトロ、悪くいえば古くさい、年季のはいったすりガラスの木枠ドアを「よいしょっ」とひいた。カランカランとカウベルが鳴る。


「お、さな坊。ひさしぶりだな」


 一週間も顔を合わせないと『ひさしぶり』になるような近しい相手ではあるが、なぜいまだ『坊』と呼ぶのか。紗菜子は常々不満に思っている。


「いい加減その呼び方やめてよ。うら若き乙女に坊はないでしょ、坊は」

「はいはい乙女坊」


 ――そこはぜひ『うら若き』と『乙女』につっこんでほしかった。恥ずかしいじゃないか。


「もー」


 紗菜子にはちょっと高い――ぐいんと背伸びしないと座れない――カウンターのスツールにどうにか腰を落ちつけたところで、水が出てきた。


「なんか食うか?」

「いらない」

「いちおう食事もできる店なんだが」


 カウンターと、四人がけのテーブル席がふたつあるだけのこぢんまりとした――やはりよくいえばレトロな――店内にいるお客は紗菜子だけである。


「いまにもつぶれそうな、でしょ」

「うっさいわ」


 半分は冗談だ。喫茶店を名のってはいるけれど、『ミモリ』はきちんとした食事も提供できる飲食店営業許可をとっているので、飲み物だけではなく食事メニューもわりと充実している。営業が苦しいのは商店街の店舗みなおなじだが、これでもランチタイムの『ミモリ』は結構混みあうのである。ディナータイムは……まあこのとおりなのだけど。


「吐きそうなくらい苦いコーヒーちょうだい」

「なんだ、失恋でもしたか」


 コーヒーミルに豆をセットしながらさらりといわれた忍の言葉に、紗菜子はバンッとカウンターに手をついて身をのりだした。それだ。


「そう、失恋の!」

「うん? 失恋……のまちがい」

「じゃない! 失恋のよ、わたしは!」

「えーっと、ごめん、意味わかんない」

「だから、別れたいの! 不倫なんて不毛な恋、おわりにしたいの! だけど、顔見ちゃうとダメなの。流されちゃうの。口うまいのあの人」


 いっきにまくし立てて、まくし立てるうちになにかがプツンと切れて――こらえるすきもなく、つきあげてきたものが紗菜子の目からあふれだした。



 *‐*‐*‐*‐*



 紗菜子がわんわん泣いているあいだに、忍はカウンターのなかで紅茶を淹れていた。熱湯でひらかれた茶葉から立ちのぼる香りに、紗菜子の気持ちも少しずつ静まってくる。カウンターに置かれているティッシュに手を伸ばしてちーんと鼻をかんだ。


 ちらりと顔をあげると、忍は手鍋にひらかれた茶葉を投入したところだった。すぐに火をとめる。どうやらロイヤルミルクティーをつくっているらしい。


「なあ、さな坊」

「坊じゃない」

「紗菜」

「なに」

「ほんとうに、本気で別れたいんだな?」

「うん。ほんとうに、本気だよ。もう、イヤなんだよ」


 話しながらも忍の手は流れるように動いている。仕上げにハチミツをたらしたカップがそっと紗菜子のまえに置かれた。


「なら、おれが一緒に行ってやる」

「へ?」

「おれとつきあってることにすればいい」

「そん」

「あっちは妻子持ち、こっちは独身。文句いわれるすじあいないし、それでもごちゃごちゃいうようなら奥さんにバラすとでもいってやればいい」

「や、ちょ」

「なにもほんとうにつきあうわけじゃない。フリをすればいいだけだ」


 紗菜子の口がぽかんとあいた。


 ――恋人のフリ? わたしが? ノブちゃんと?


 そんなこと、考えたこともなかった。


 だけど……


「そっか。ノブちゃんも男の人だった」

「…………」


 忍がかたまってしまった。


「あ、ちがうよ、そうじゃなくて……なんか、ノブちゃんのことそういう目で見たことなかったから……」


 忍はますます複雑そうな顔になってしまったが、紗菜子の意識はべつのところに向いていた。


「そうか……ノブちゃんとわたしがつきあっても、おかしくないんだ……」


 忍とは五歳しかちがわないのだ。客観的に見ればまったくおかしくない。その事実が新鮮だった。目からウロコである。


 紗菜子はカップを包みこむように両手で持って、ふーふーと息を吹きかけた。猫舌なのだ。


「ノブちゃん」

「なんだよ」

「ほんとにいいの? いやじゃない? フリでもわたしの恋人になるなんて」


 こんなふうに聞いたら『そんなことない』というしかない。紗菜子はそういうことがきらいだ。なのに、忍にはどうしても、甘えてしまう。


「そういう自虐いらないから」


 ――だよね。だけど。


「いやなら最初っからこんな提案しねーよ」


 口に含んだロイヤルミルクティーの甘さがとてもやさしくて、とまったと思った涙がまたポタポタと目から落ちてくる。

 どうしてこう、ほしいときにほしい言葉をくれるのだろうこの人は。忍はむかしからそうだ。


 ――だから、こんなのいやなのに。きらいなのに。甘えてしまうじゃないか。


「ノブちゃんのばかああぁーー!!」


 紗菜子はちょっと自分でもひくくらい泣けて、しかもとまらなくて、やっぱり甘えていると思いながら、だけど苦しかった胸のつかえがとけていくようだった。


「一緒に行くか?」

「いぐ」

「よし。じゃ、好きなだけ泣け」


 ひさしぶりに、ほんとうにすごくひさしぶりに、その大きな手が犬をなでるみたいにわしゃわしゃと紗菜子の髪をかきまわした。そして、そのボサボサになったショートボブの髪をととのえるようになでるのもまた、むかしのままだ。


「ノブちゃん」

「ん?」


 迷惑かけてごめん。出そうになった言葉をすんぜんでとめる。そんな言葉を忍はよろこばないと、紗菜子は知っている。


「ありがと」

「うん」



     (つづく)


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