第2話 はじめての恋人

 紗菜子さなこが彼――藤津馴人ふじつなひとと出会ったのは大学二年生のときだった。人数合わせのためにほとんど無理やりつれていかれた合コンでのことだ。彼もまた人数合わせのピンチヒッターで、ほかの参加者みたいにガツガツした雰囲気もなく、とても感じのいい人だった。話もうまくて、さりげない気づかいがこまやかで――ああ、素敵な人だなって、会ったその日に思ってしまったのだ。


 馴人はじつにさりげなく、だけどとても熱心に紗菜子を口説くどいた。ほめ上手で、聞き上手で……まぁ、ようするに女慣れしているプレイボーイだったわけだけど、免疫がなかった紗菜子はコロっとまいってしまったのである。


 浮かれていたのだろうと思う。特別奥手というわけでもなかったのだけど、なんとなくそういう機会がないままだった紗菜子にできた、生まれてはじめての恋人である。多少浮かれてもしかたないだろう。

 うれしくて、浮かれて、舞いあがって、まっさきにしのぶに報告してしまったのは失敗だったかもしれないけれど。


 ほんとうにバカだったと、今なら思う。冷静に振り返ってみれば最初からおかしなことばかりだった。


 まず馴人は、昼間会うことを避けていた。そして週末に会ったこともほとんどない。会うのはいつも平日の夜だった。『サービス業だから(週末は仕事)』といういいわけを信じていたけれど、じゃあ具体的にはどんな仕事をしているのか――といえば、紗菜子はそれを知らなかった。彼にたずねても、いつも適当にはぐらかされていた。



 馴人が既婚者であると知ったのは、つきあって三か月か四か月か……半年はたっていなかったと思う。つきあいはじめの舞いあがった状態から、ようやく少し落ちついてきたころの話だ。


 彼の不自然な言動に紗菜子が疑問を持ちはじめ――おそらくそれを敏感に察知したのだろう。馴人のほうから打ちあけてきた。問いつめられる前に先手を打って告白してくるあたり、とことんたちが悪い男だと思う。しかも、奥さんだけじゃなく、子どもまでいた。仕事はまさかの公務員。ついでに年齢も二十六歳といっていたけれど、実際は三十二歳だった。もっとも、ほんとうの年齢を聞いてもすぐには信じられなかったくらい若く見えるのだけど。


 なにもかも、笑えるほどにウソだった。


『最初にほんとうのことを話していたら、ぼくのこと真剣に考えてくれなかっただろう?』


 あたりまえだ。既婚者だと知っていたら、まちがってもふたりで会おうなんて考えなかった。


『最初は確かに遊びのつもりだったよ。でも、今はちがう。ぼくは本気だよ』


 良識あるおとななら。あるいは、プライドを持った女性なら。この時点で別れを選択しただろう。バカにするなと平手打ちのひとつでもくらわせて立ち去っただろう。だけど紗菜子は、そうできなかった。


 恋はするものではなく落ちるものだとよくいうけれど、紗菜子が落ちたそれは、おいそれとは抜けだせない深さがあった。だから、出会ったのが遅かっただけ――なんて。そんなつかい古された、陳腐な理屈にすがった。



 彼が既婚者だと知ったその日。混乱して、どうしたらいいのかわからなくて、無意識に向かったのは忍のところだった。

 話すつもりはなかった。ただ、会いたかった。だけど、紗菜子の顔を見ただけで、忍はなにがあったのかを見抜いてしまった。さすがに既婚者だとは思っていなかったらしいが、最初に報告したときから、相手の男には紗菜子のほかにも恋人がいるのではないか――と疑っていたのだという。そういえば、なんかずいぶん複雑な顔をしていたような気がする。


 でも、それならそうといってくれればいいのに。そう思ったけれど、舞いあがっていた当時の紗菜子は、たぶん聞く耳を持っていなかった。むしろ反発して意固地になっていたかもしれない。くやしいけれど、そういう性格は紗菜子自身よりも忍のほうがよく把握している。

 そして皮肉なことに、忍に打ちあけたことで紗菜子はよくないほうに心の整理をつけてしまった。つまり、彼と『別れない』道を選択した。手おくれだと自覚してしまったから。もうどうしようもなく好きになっているのだと、はっきりと自覚してしまったから。だから――


 結婚できなくてもいい。

 ずっと二番目でもいい。


 そんなきれいごとを自分にいい聞かせて、いい聞かせて、いい聞かせつづけて、そしてもう、五年になろうとしている。



 *‐*‐*‐*‐*



「ノブちゃん」

「うん?」

「わたしのこと、軽蔑してる?」

「どうしたいきなり」

「親友の、結婚式なのにね……」

「…………」


 奈子なこのしあわせそうな笑顔を見ているだけで、どうしてこんなに苦しくなるんだろう。


 ――女房とはうまくいってないんだ、なんて。

 ――夫婦仲なんかとっくに冷えきってる、なんて。

 ――愛してるのはきみだけ、なんて。

 ――もう少し子どもがおおきくなったら離婚する、なんて。


 馴人あの人は、息をするようにウソをつく。そのウソが少しずつ、少しずつ、紗菜子の心を腐らせていく。


「軽蔑なんかしてないよ。バカだなぁとは、思うけど」

「それってちがうの?」

「ちがう」

「そっか」

「そうだよ」


 忍は、ウソはいわない。隠しごとをすることはあっても、紗菜子にウソをついたことはない。

 人好ひとよしさんはどうだろう。……奈子がえらんだ人だ。きっと心配する必要なんてないだろう。



 ――もう、やめよう。



 何度もやめようと思って、何度も失敗してきたけれど。今度こそ、ほんとうにおわりにしよう。


 彼の奥さんがどんな人なのか、紗菜子は知らない。顔を見たこともない。それでもきっと、結婚式のときはしあわせそうに笑っていたのだろうと思う。もしも今泣いているのだとしたら、その責任の半分は自分にある。

 そしてなにより――大好きな友だちのしあわせをねたむような、心から祝福できなくなるような、そんな恋なんて。


 そんなもの、もういらない。



     (つづく)


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