第18話 アイドルの世界 ④

 菊池原プロダクション、それが僕の所属するアイドル事務所の正式名称だ。

 静岡県浜松駅から、東京の品川駅までは新幹線で約二時間の距離。新幹線に単身乗り込んだ僕は、目的地へと近づいていくにつれて胸の鼓動も増していった。



 今の僕の格好、上は青のTシャツに下は白のスカート。

 頭には黒い長めのウイッグを取り付けて、バレッタを装着。

 足はストッキングを着用、真夏にストッキングはそぐわないが男と見抜かれない工夫はしておくべきだろう。



 これでどこから見ても、完璧な女装スタイルだ。



 紫吹肇は今日より、男ではなく女としての生活を送らなければならない。

 そう自分に言い聞かせて、僕はこのスタイルを完成させた。

 周囲の目が気になり、いつどこから声をかけられるのかわからない。内心ビクビクしていたが、早く枢木夏向に会って話をしたい気持ちも膨れ上がっていた。



 そこまで考えたことで時間も忘れ、新幹線が目的地に到着する二分前に我へと返る。僕は慌てて荷物を抱えて、新幹線を降りた。



「ふー、危なかった……」



 ホッとしたのも束の間、人混みに押されながら改札を抜けて外へたどり着く。

 

 さすが東京、見渡す限り人、人、人だ。こんなに人が密集している光景を、地元で目の当たりにすることはなかなかできないだろう。



「紫吹さん、お待ちしておりました」


「秦泉寺さん、こんにちは。今日からアイドルとして、よろしくお願いします」



 駅の外で声をかけてきたのは、僕のマネージャーの秦泉寺さんだった。

 グレーのセットアップスーツ。赤い唇や整ったアイライン、ファンデーションにも抜かりがない。


 どの方向から見ても、彼女は美人敏腕マネージャーの雰囲気を醸し出していた。



「早速で申し訳ないんだけど、この後あなたを交えて打ち合わせを始める段取りが組まれているの。テレビ局に向かうから、心づもりはしておいて」


「えぇっ! 僕……じゃなかった。私、まだ心の準備が……」


「大丈夫、話してもらう内容は事前に聞いてあるわ。さ、詳しい話は車の中で」


「は、はい……」


 

 急かされるまま、僕は秦泉寺さんの後ろをついていく。そして駅の近くに停車していたシルバーの乗用車に促されたことで荷物を後部座席に乗せた。


 秦泉寺さんは運転席、僕は助手席へ乗り込む。

 車は静かにエンジン音を鳴らし、アクセルを踏んだことでゆっくり動き始めた。

 路肩から車道に入った秦泉寺さんの車は、信号が赤になったところで停止した。



「あの、これからある打ち合わせって……もしかして、記者会見ですか?」


「えぇ。あなたと夏向、二人のユニットをメディアの前で正式発表するためのね」



 正式発表という秦泉寺さんの言葉を聞いたことで、また胸の鼓動が大きくなった。ついに、アイドル紫吹肇として全国民の目に触れられる瞬間がすぐそこまで迫っているのを否応なしに実感してしまう。



 アイドル、紫吹肇………ん?

 しぶき……はじめっ!?



「あぁっ!?」


「ど、どうしたのよ。急に大きな声なんか出して……?」


「大変です秦泉寺さん! 僕の名前、名前がっ!」



 本当に今更なことに気がついてしまった。

 僕個人を知る人物なんて、日本全国の人口を割合に考えても極々少数。赤の他人の一般人に男だと見抜かれるなんて、宝くじに当たる程度の可能性だろう。


 しかし問題は、僕が枢木夏向の相方アイドルという点だ。

 この代名詞は、新人アイドルである僕の知名度を飛躍的に高める起爆剤になる。


 今後彼女と共に行動を共にするということは、すなわち僕の正体を知る可能性を高めることに直結する。すなわち僕は、自分で自分の首を絞めることになるのだ。



「紫吹肇の名前でテレビに出ると、僕が男だってバレるかもしれません!」


「大丈夫、そのことについては私の方で考えてあるわ。あなたには紫吹肇ではなく、【蕗村咲】という名前で、これから活動してもらうことになっているの」


「蕗村……咲……?」


「えぇ、だからこれからは紫吹さんの事を蕗村さんと呼ぶわ。夏向にもそう伝えてあるから、あなたも呼ばれたら反応できるように意識だけはしておいてね。あと呼一人称も『私』で統一するように」


「は、はい……気をつけます」



 これが俗に言う、芸名と呼ばれるものか……。


 僕は自分の名前が二つできたことに若干の戸惑いを覚えつつも、世間に知られる危険性が限りなくゼロに近い状態になったと安堵した。



「後部座席にある私のバッグに、あなたの……蕗村咲のプロフィールが入ってあるわ。しっかり目を通して、インタビューに答えられるようにしておきなさい」



 秦泉寺さんから言われて、僕は後ろの席に置いてあったベージュのショルダーバッグに手を伸ばす。バッグの中にはクリアファイルや付箋などを用いて綺麗に纏められた紙の束を始め、革製の手帳や化粧品の入ったポーチ、高級そうな財布に携帯電話。そして花柄のハンカチーフ等々が入ってあった。



「秦泉寺さん、書類がいっぱいありすぎて……どれがプロフィールなんですか?」


「たしか、透明のクリアファイルの中よ。確認してくれる?」



 言われるがまま、僕は透明のクリアファイルをバッグの中から取り出した。

 中の書類を拝見すると、蕗村咲と書かれた用紙が目に止まった。



「これかぁ……」



 名前:蕗村咲(ふきむら さき)

 年齢:十六歳

 誕生日:十二月五日 蠍座

 特技:裁縫

 身長、体重、エトセトラ、エトセトラ……。


 他にもいくつか項目があったが、名前が変わっているところ以外の内容は全て、以前秦泉寺さんから書くように言われた僕の個人情報だった。


 枢木夏向のシークレットライブでスカウトされ、この業界に足を踏み入れたことまで詳細に記載されていた。



「なるほど、中身はあくまで紫吹肇ということなんですねえええええええっ!?」



 書類に目を通すことに集中していた僕は、唐突に体全体にかかってきた衝撃に驚愕した。シートベルトが体に食い込んで胸が苦しくなるほど、車のスピードが出ていたのだ。



「あら、ごめんなさい。驚かせちゃったかしら?」


「けほっ、お……驚くなんてものじゃ……って! 秦泉寺さん、車のスピード出しすぎですよ!」



 どうやら車は高速道路に入ったようで、フロントガラスから望む光景は随分と開けていた。しかし表示されている車のスピードメーターは、時速百四十㌔㍍を軽く超えている。それなのにも関わらず、秦泉寺さんは涼しい顔をして鼻歌交じりに車の運転をしていた。



「時間も無いから、高速に乗って向かうわ。十分ぐらいで着くから、安心してね」



 冗談ですよね?

 十分もこの状態が続くんですか?



 アイドル蕗村咲の始まりは、とんでもないロケットスタートで幕を開けた――。

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