第12話 急接近 ④

 部屋の中に入った僕が真っ先に目にしたものは、綺麗に並べられている衣装の数々だった。しかし、その衣装から漂ってきた匂いに僕は鼻を覆った。



「この酷く粘ついた濃い匂い、まさか……」



「えぇ、納豆よ」



 なんとすべての衣装に納豆のトッピングが施されていた。

 


 これは……酷い! 

 ねっとりとしたたる納豆は糸を引き、発酵した大豆の匂いがプンプンしていた。コレではクリーニングしても、再びこの衣装に袖を通そうとは思わないだろう。



 なんてことだ、許し難いにも程がある! 

 こんなの、アイドルの魅力を引き立ててくれる衣装に対する冒涜だ!

 


 この惨状を引き起こした人物に対し、腸が煮えくり返る思いで胸糞が悪くなる。

 僕が一番許せないのは枢木夏向に対する誹謗中傷だが、その次は衣服や道具に対する心無い扱いだ。物には作った人の気持ち、すなわち『心』が込められている。

それをこんな風に扱う人の気が知れなかったし、知りたくもなかった。



 これじゃあ、ステージでライブを始められないのも頷けた。



「私、実は納豆が苦手で……あの匂いと、粘り気がどうにも好きになれなくて」

「そ、そうなんですか! 実は私もなんです!」



 思わぬところで、枢木夏向の共通認識を得られてしまった。

 僕も昔から、納豆とは相入れぬ関係だった。学校の給食で納豆が出される度に、素知らぬ顔をして琴美の器に流し込んでやった記憶が蘇る。

 好き嫌いするなとお母さんからよく言われたが、無理を言わんでください。



 食えないものは、食えないのだ!



 しかし、枢木夏向が納豆嫌いとは知らなかった。

 僕が知らないということは、この事実はファンに知らされていない秘匿事項(トップシークレット)。もしかしたら枢木夏向の所属事務所が、彼女の人気に差し支える情報は控えようとあえて公表していないのかもしれない。



「あの、他に衣装はないんですか?」



 僕は秦泉寺さんに問いかけてみたが、彼女は目を瞑って静かに首を縦に振る。だが僕は、納豆まみれの衣装から少し離れた位置に置かれたキャリーラックに掛けれている服を見つけ手に取った。



「この衣装はどうですか? 納豆は付いていないみたいですし、綺麗で使えそうですよ!」

「ちょっと、それは私様の衣装よ!」

 


 口を挟んできた相手を確認するため、僕は視線をやや下に向ける。

 目に映った金髪幼女は、腕を組んで不機嫌を露わにしていた。



「これ、斗羽利さんの衣装なんですか?」

「ええ、そうですわよ。夏向のライブに出演するためわざわざ持ってきたお気に入りのステージ衣装。全てオーダーメイドの特注品ですわ!」



 確かに彼女が言うように、僕が手にとった衣装はどれも枢木夏向が着るにしては小さいモノだった。



「フフ、私様の衣装を間近で見られるなんて貴女は幸せ者ね」



 そう言って、金髪幼女は微笑んでみせる。

 全く光栄なことではないと思ったが、さすがに特注で作らせただけあっていい材質を使っていることは手触りで理解できた。



「あぁ、残念。本当に残念ですわ。夏向が私様と変わらない体型でしたら、衣装を使わせてあげても良かったのですけれど」



 どこか含みのあるような言い方にも聞こえたが、斗羽利がそんなことを口にしても事態は一向に変わることはなかった。

 


 秦泉寺さんが頭を抱えるのも無理からぬことだ、こんな非常事態を乗り切る方法なんて、すぐに思いつけるわけがない。



 時間が経過していくにつれ、納豆の匂いがこの沈んだ空気に合わさり酷く気分を害した。



「失礼しまーす。秦泉寺さん、やはり別の衣装を用意するにしても、東京からこっちまでは時間がかかるみたいで。別の方法を考えないと……」



 部屋へ入ってくるなり、頭にタオルを巻いた恰幅のいい男が口を開いた。

 そして秦泉寺さんは万策尽きたと言わんばかりに肩を竦め、大きくため息を吐くと「夏向、こうなってしまった以上……やっぱりライブを中止して観客へ謝罪をしましょう」と言うのだった。



「それは駄目です!!」



 だが、僕は秦泉寺さんの言葉を聞いて思わず声を出してしまった。



「駄目って貴女、この状況を見てわかりませんの? まさか夏向に、納豆まみれの衣装で歌えとでもいうつもりなのかしら?」

「そんなことは言いませんし、させません」

「だったら、どうするつもりなの? 私様に分かるよう教えてくださります?」

「私が……、私が衣装を作ります!」

「……はぁ?」



 これが、僕の閃いた答えだった。

 


 枢木夏向の衣装が無いのなら、衣装を作ってしまえばいいのだ。

 不可能と思えるその選択だが、僕にはそれしか方法が見つからなかった。



「衣装を作るって、貴女……そんなこと急に」

「できます! 私、学校で手芸部に所属しているんです。手先は器用な方ですし、ここには金髪よう……おほん。斗羽利さんの衣装もあります。そしてなにより……この会場にはあと一人、裁縫に関して腕利きの人物がいますからっ!」



 僕は言い切った、腕利きの人物とは言わずも御空先輩のことである。



「ちょ、ちょっと貴女! 私様の衣装を使って夏向の衣装を作るつもりですの?」

「さっき使っていいって言いましたよね? だから斗羽利さんの衣装、遠慮なく使わせていただきます!」



 素材はある、技術を持つ人もいる。

 今の僕に、やってできないことは無い。

 この場に僕が居合わせたことが成り行きによるものであっても、枢木夏向の為に自分の力が活かせる瞬間が訪れたことに必然性を感じずには入られなかった。



「マネージャーさん、お願いします! 私にやらせてください!」



 秦泉寺さんに頭を下げて、僕は誠心誠意お願いした。



「……気持ちは伝わったけど、どこの誰とも知れない人に衣装を作ってもらうわけには……」

「私からもお願いします、秦泉寺さん!」



 僕の隣で頭を下げ、一緒にお願いしてくれたのは枢木夏向だった。



「夏向、あなたまでなにを言い出すのっ!?」

「私、歌いたいんです。今日ここへ、私の歌を聴きに来てくれた人達のために。私に逢いに来てくれた、ファンのために!」

 


 枢木夏向は頭を上げると、今度は霧生院斗羽利に向き直って頭を下げた。



「斗羽利先輩、衣装は絶対に弁償いたします。だから、使わせてください!」

「ふ、ふざけんじゃねーですわよ! だ、誰が貴女なんかにっ!」

「お願いします!」



 枢木夏向は、必死に頭を下げて頼み込んだ。

 そんな彼女の力になれればと、僕も並んでお願いする。



「お願いします、やらせてください! 斗羽利さんの衣装、絶対に無様な衣装にはしませんから!」

「……ふ、フン! わかりましたわ。そこまで言うならここに在る衣装、すべて好きに使ってくださって結構よ! そもそも納豆の匂いのついた衣装なんて、もう着る気にもなれませんもの!」

「斗羽利さん、ありがとうございます!」



 了承が得られたことに歓喜した枢木夏向は、斗羽利に抱きついていた。



「一時間、それ以上は待てないわ。紫吹さん、夏向も、それでいいわね?」

「……はい、わかりました」

「秦泉寺さん、ありがとうございます!」



 マネージャーの許可も得られた、これで作業に取り掛かれる。



「大道具さん、悪いけど縫針道具を一式買って来ていただけますか?」

「は、はぁ。わかりました……」

「その必要はありません、すべて私が持っていますから」


 僕は肩に提げていた鞄の中から、愛用の裁縫セットを取り出した。いつどこへ行くときでも、この裁縫セットは持ち歩く僕の習性がついに役に立つ時が来た。



「紫吹さん、すごいですね! 準備万端じゃないですか!」

「い、いえそんな。これくらい、人として当然のことですよ」

「針と糸を持ち歩くことは、人として当然じゃないと思うのは私様だけかしら……?」

 


 枢木夏向にすごいと言われて、気持ちが昂ぶる。斗羽利からさり気無くツッコミを入れられたのは聞かなかったことにしよう。



「道具があるなら、後は任せて大丈夫みたいね。夏向、あなたはこれからステージに立って観客の方に事情を説明するのよ。その打ち合わせをするから、早くこっちへ来なさい」

「はい、わかりました。紫吹さん、衣装よろしくお願いします」

「任せてください!」



 お願いされた……僕があの超人気国民的アイドルである枢木夏向に願いを託されたのだ、絶対にやり遂げてみせる! 



「そうだ、マネージャーさん。会場内にいる、御空宇津保って人をここへ連れてきてください」

「その方が、あなたの言う裁縫に関して腕利きの人物なのね?」

「はい! 紫吹肇が呼んでいるって言ってくれたら伝わりますから、特徴は白い肌に長い黒髪。あと、前髪で目を隠しています」


 

 御空先輩の特徴を伝えると、秦泉寺さんはすぐに部屋を出ていってしまう。

 本音を言ってしまえば、先輩と顔を合わせるのは気が引けた。しかし腹を括り、その覚悟を糸に込め、ハサミで切り分けた衣装の生地に針を刺した――。


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