第1話 シークレットライブ①
僕、紫吹肇は静岡県蓮水市に住む普通の男子高校生であり、これまたどこにでもありそうな普通の公立学校【蓮水学園高等部】に通っている。今も【2ーA】と書かれたプレートが貼られている教室の中にいて、三十脚ある椅子のひとつに腰を置き授業を受けていた。
教卓の前に立っているのは、最近小皺が目立ち始めた女の先生。授業中だというのに板書もせず、生徒の様子を見守っている。今日の授業内容は漢字の書き取りだった。だから先生は「教科書に書かれている漢字をひたすらノートに書け」と言ってから何もしていない。
僕の座っている席は、黒板を正面にして一番左側の前から三列目に位置していた。漢字の書き取りなんて実に身にならない授業だと思うが、僕達学生は来週行われる期末考査で一定ラインの点数を収めなければならない宿命を背負っている。
学校へ通う以上、【テスト】と呼ばれるモノを避けては通れない。
だからこうして、早く放課後になって欲しいと心から願いながら、やりたくもない勉強に精を出し授業を受けているのだ。
放課後になれば、部活ができる。
一応今日からテスト勉強期間ということで部活動は自由参加となっているのだが、僕は部室に顔を出すつもりだった。なぜならこんな授業なんかよりも数倍マシな、とっても身になる時間を部活動では過ごす事ができるからだ。
身になるといっても、僕が入っている部は運動部ではなく文化部である。
僕は運動があまり得意ではない。自分で言うのもなんだが、体を動かす程度ならクラスで中間的な立ち位置だと思う。ただ、それ以上の突出した能力やセンスは持ち合わせていなかった。別にサッカーやバスケ、テニスや陸上競技が嫌いというわけでもない。だからといって上手くなりたいとも思わない。
低すぎず高すぎず、程々で良いのだ。
僕は手芸部に所属しており、部の活動内容は主に自分で考えた服を作ること。
白紙の上に一から洋服――あるいは衣装――をデザインし、作成に取り掛かる。
その結果、世界でひとつしか存在しない作品が出来上がるのだ。
完成した時の達成感と、それを手に取った時の感動は、まさに筆舌に尽くしがたいと言わざるをえないだろう。現在取り掛かっている洋服のコンセプトは、良い感じに固まりかけていた。
季節は夏本番に差し掛かった六月下旬。先週梅雨明けしたと天気予報は報道していたこともあり、僕が今考えているコンセプトは、【夏を楽しむ爽やかスタイル】だった。デザインも丁度昨日書き上げたので、早速作成に取り掛かりたいと体がウズウズしてたまらない。そんなことを考えているうちに、授業の終了を知らせるチャイムが天井のスピーカーから聞こえてきた。
「はぁ~、やっと解放された……」
今日の授業は、この現国が最後。後はホームルームを経て放課後に至る。間を置かず担任の先生が教室に入ってくると、来週の期末考査について連絡を始めた。
さようならの一斉挨拶が済むと、みんな思い思いに動きだす。僕の隣に座っていた女子生徒は携帯を取り出し、メールでも打っているのか何やら指をせわしなく動かしていた。僕の後ろの席の男子生徒は、机に掛けていた鞄を掴み取ると早々に教室を飛び出す。そして僕の前にいる席の女子生徒は「肇ちゃん、部室行こう!」と声をかけてきた。
「うっ、うん……」
いきなり声をかけてこられたので不意を突かれ、言葉が詰まってしまった。
「あっ、肇ちゃん。ちょっとだけ待ってて。すぐ日直日報を書くから」
薄い銀色フレームのメガネを掛けた彼女はそう言って席を立ち、教卓の上に置かれていた青色の大学ノートを手に取った。そしてさっきまで座っていた自分の席に戻ってくると、机の上に置いていたオレンジ色の筆箱からシャープペンシルを取り出し、ノートになにやら書き記していく。
教室の中が暑いのか、彼女の額には汗がじんわりと滲み出ていた。シャープペンシルを握った右手の甲で汗を拭うと、肩まで伸ばした黒髪をやさしくかきあげる。
ふわりと靡く彼女の髪の毛が、僕の目には黒く煌いているように映った。
渡良瀬琴美、それが今ノートを書いている彼女の名前だ。
僕は彼女のことを、幼い頃から知っている。逆に彼女も僕のことを、幼い頃から知っていた。お互いに住んでいる家も、歩いて四~五分ほどの距離しか離れていない。小学校、中学校、そして今通っている高校。さすがにクラスまでいつも一緒というわけではないが、同じ学び舎で苦楽を共にしてきた腐れ縁。
早い話、僕と琴美は[幼馴染み]と言われる仲だった。十年近く彼女を見てきたわけだが、琴美には絶対に変わらないところがあった。それは彼女の、几帳面かつ真面目な性格だ。容姿は成長するにつれて多少なりとも変化していったが、この性格だけは変わらなかった。そのため小学校高学年からいつもクラスを指揮する役割に徹し、今もこうして欠席した日直当番に代わり、頼まれたわけでもないのに日報を書いている。
「よし、これであとは職員室へ返すだけね」
「琴美、いつも日直がいない時は代理でやってるけど。別に琴美がやらなくても明日の日直にやらせれば――」
「いいんだよ肇ちゃん、私がやりたくてやっているんだから」
これである。良い見方をすれば率先的で主体性ある行動だが、悪い見方をすれば積極的自己犠牲の精神だ。本人に言うつもりはないが、琴美は何でもかんでも背負い過ぎじゃないかと思う。
教室を出た僕と琴美は、下階にある職員室へと向かって歩き始める。すると僕の前を歩く男子生徒の持った携帯電話から、聴き慣れた音楽が流れた。
「お前、これ枢木夏向じゃん?」
「おう。俺、[くるかな]のファンだからよっ!」
なんて会話が、僕の鼓膜を刺激した。
くるかなのファン……だと?
誰の許可を得て彼女の名前を省略しやがってんですかお前っ!
ちゃんと枢木夏向と呼びやがれ、ゴラァ!
――と、言いたい衝動を僕は必死で押さえ込んだ。
「肇ちゃん、職員室はこっちこっち!」
琴美の声に反応して、自分が階段を通り越していたことに気が付く。男子生徒は廊下の角を曲がり、どこかへ行ってしまう。一言物申してやりたい感情を抑えつつ、僕は回れ右をして琴美の元へと駆け戻り、階段を降りて職員室を目指した。
まだ枢木夏向を侮辱されたことが気になって、怒りが治まらない。静まれ、静まるのだ僕。
「どうしたの肇ちゃん? 顔、怒ってるように見えるんだけど?」
「怒ってないよ、激怒しているんだ」
「世間一般ではそういうのを、怒っているって言うの。で、なんで怒っているの?」
「……実はさっき、僕の前にいた男子生徒が――」
琴美の質問に対し、僕は男子生徒たちが口にした内容を一言一句間違わずに伝える。そこには、僕の味わった怒りを共有してもらえるかもしれないという考えも少なからずあった。
しかし琴美は「ふーん、でもそれって怒るほどのこと?」なんて言いやがった。
「怒るところでしょ、常識的に考えて!」
「いやいや、怒らないでしょ。常識的に考えて……」
琴美は自分の顔近くまで持ってきた右手で、ハエを払うかのような動きを見せる。その顔は脱力しきっており、呆れてモノも言えないといった目で僕の顔を見ていた。
そんなやりとりをしている内に職員室へやってきた僕と琴美は、日直日報を担任の先生へ渡して手芸部の部室に向かう。琴美も僕と同じく、手芸部に所属している。そして彼女の家は【渡良瀬被服店】と書かれた看板を掲げているのだ。
早い話、琴美は洋服屋さんの娘である。
学校を出て少し歩いたところに、蓮水商店街と呼ばれる場所がある。琴美の家は、その商店街の中にあるお店のひとつなのだ。だから当然僕なんかより手芸の知識は深く、また手先も器用……な、はずなのだが。
「ところで琴美、そろそろミシンの使い方は覚えられた?」
「あぅ、まぁまぁ……かな……」
「返し縫いは? 玉止めは? 待ち針の使い方は?」
「あぅあう、それを言わないでよ肇ちゃん……」
琴美は本気で頭を抱え、半ば涙目になりながら僕の顔を見つめていた。
これが渡良瀬琴美なのだ。洋服屋さんの娘であるにもかかわらず、彼女は裁縫の技術が壊滅的にダメだった。いや、昔の頃に比べると幾分マシになったところもある。特にここ二~三年の間の成長には、そばで彼女のことを見ていた僕にとってめざましく思えていた。ようやく琴美も、[針の穴に糸を通す]ことができるようになってきたのだ。これは快挙と言っても過言ではない。
「どうせ私は不器用よ。洋服屋の娘なのに、柔軟剤と間違えて漂白剤を入れちゃうような大馬鹿者ですよーだ!」
琴美は頬を膨らまして、プイッとそっぽ向いてしまう。彼女のこの仕草を、僕はすっかり見慣れてしまっていた。僕が意地悪をすると、琴美は決まってこんな子供じみた態度を取るのだ。根は真面目で几帳面、しかし一度拗ねると幼い子供のように振舞ってしまう。それが彼女、渡良瀬琴美という女の子なのだった。
「でも、僕は琴美の作ったデザイン好きだよ。カジュアルな所がオシャレだし、色合いも個性的で、何より男の僕が着てみたいって思ったぐらいなんだし」
「そ、そう? 肇ちゃんも、そう思ってくれるの?」
さっきまで募っていた不満はどこへ行ったのやら。
僕の言葉を聞いた途端、琴美の表情はパーっと明るくなっていた。自分の生み出したデザインを褒めてもらったことが、そこまで嬉しかったのだろうか。
勿論、機嫌を損ねた琴美を慮り、上辺だけの軽い言葉を言ったつもりはない。素直に良いと思えたから口にしただけである。
「見て見て肇ちゃん! 私、こんなスカートをデザインしたんだけど、ちょっと子供っぽいかな? こっちはワンピース、この模様なんて夏っぽくていいんじゃない?」
琴美は洋服のデザインを描いたノートを、グイグイと僕の顔に押し付けてきた。
「そう言えばここまで来てなんだけど、今日から部活って自由参加じゃなかったっけ?」
「うん、そうだよ……って琴美。もしかして忘れてたの?」
「だ、誰だってそういう時くらいあるでしょ? で、どうするの肇ちゃん? 帰る?」
「僕は期末考査のことを承知で、ここまで来たんだよ。だから部活はしていくつもり」
「じゃあ私も。失礼しまーす」
「紫吹肇! たたた、大変! たいへん! たい、へん、なの、だ――っ!!」
扉を開けるなり聞こえてきたのは、僕の名前を呼ぶ声だった。
「ぶ、部長?」
「御空先輩、どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたも無い! いいからこれを見て、これを!」
被服室の中から飛び出してきたのは、手芸部の部長を務める三年生――御空宇津保(みそら うつほ)先輩だった。全身の白い肌に前髪パッツン、まるで日本人形のように長く伸ばした艶のある黒髪が僕の目を引きつけて離さなかった。
しかし前髪の向こうから覗かせる先輩の瞳が血走っていることから、ただ事じゃない様子だというのは伝わってくる。戸惑う僕と琴美だったが、ひとまず目の焦点を御空先輩の手に握られている携帯電話の画面に合わせた――。
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