アイドルの僕は表裏一体(パッケージ)
播磨竜之介
プロローグ
僕、紫吹肇(しぶき はじめ)はアイドルオタクである。といっても、アイドルなら誰でもいいというわけではない。僕が心の底から応援するアイドルは、世界でたった一人だけだ。
彼女の名前は枢木夏向(くるるぎ かなた)。
俗世に埋もれ、すさんだ人生を歩んでいくとばかり思っていた僕の未来に、一縷の光を照らしてくれた太陽のような存在だ。彼女に寄せる熱い想いが積もりに積もり、僕はついにこの場所『枢木夏向ファーストライブ』の会場へ来てしまった。
ハコと呼ばれる広くて大きなライブ会場にいる観客を始め、大人から子供までの心を掴んで離さない魅力的な存在。それが彼女、枢木夏向なのである。
黒い世界を明るく照らすスポットライトの下、彼女はキレのあるダンスで観客を沸かしていく。ついつい聞き惚れてしまう歌声を耳にして、僕はさらに彼女を応援した。
キラキラと光り輝くステージの上で、枢木夏向は眩しい笑顔を僕たちに向けていた。今この状況を心から楽しんでいるのだと、誰が見ても分かるだろう。
僕がいる場所はライブ会場の前列から数えて五列目、彼女から見て右側の方に位置していた。決してステージから遠くないにせよ、少なからず彼女との距離を感じてしまう。
やがてバックミュージックも静かになり、枢木夏向はライブのオープニングソング『LOVE×LOVE SUN SHINE』を歌い終えて姿勢を正す。
そして僕たち観客(ファン)の前に向き直った。
僕の目には、彼女の頬が紅潮しているように映った。そしてその細くしなやかな右腕を天井目掛けて伸ばすと、掌を広げて大きく振る。
「みんなぁ――っ! 今日は私のライブに来てくれて、本当にありがとぉ――っ!!」
「「ウオォ――――ッ!!」」
雄叫びにも似た声で、観客は枢木夏向に応えた。その歓声に会場内は大きく揺らぎ、まるで地震でも来たかと錯覚してしまう。
僕はとてもじゃないがそこまで大きな声では応えられないので、心の中で精一杯応援した。声の大きさでは勝てないかもしれないが、彼女を応援する気持ちで他のファンに後れを取っているつもりは毛頭無い。
彼女のプロフィールは、公開されている範囲内でなら全て頭の中にインプット済みだ。誕生日は八月二十三日の乙女座。血液型はAB型で現在十六歳の現役女子高生。趣味は招き猫鑑賞で、毎日三十分は招き猫の頭を撫でている。
特技は幼いころから習っているピアノ。一度だけテレビで演奏してくれたことがあったが、それこそコンクールに出たって恥ずかしくないほどの腕前だった。
まぁ、ここまで知っているのはファンとして当然だろう。僕は、決して彼女のストーカーではない。僕はただ純粋に、枢木夏向をファンとして好きなのだ。
そう、決して邪な目で彼女を見ているわけではない……はず……だ!
「じゃあ次の曲、いっくよ――っ!!」
枢木夏向はそう言って、ステージの上を跳んだ。その行動によって、彼女が身につけている黒と黄色の二色で彩られたミニスカートが「ふわり」と浮き上がるのが見えた。くっ、最前列の観客が羨ましい。
自分でも贅沢な思い上がりだと理解している。しかし一ミリでも彼女の姿を近くで見たいと思うのは、ファンとして当たり前の思考ではないだろうか。
曲がサビの部分に差し掛かると、観客のテンションがはね上がった。
僕は手に持っていたペンライトを頭上に掲げ、音楽に合わせて左右に振り始める。周りの観客達も誰に言われたわけでもなく、慣れた手つきで僕と同じように動いていた。さすがだ、僕は素直に周囲の観客に感服した。
この曲に使うペンライトの蛍光色(赤色)まで、全員が一致しているのだ。
まるで統率のとれた軍隊のように、全く乱れのないテンポでペンライトは同じ方向へ動いていた。ステージの上に居る彼女の目にも、この動きと光は映っているはず。僕たちの想いは届いているに違いない。
ライブ会場の中は五千人の観客で埋め尽くされている。聞いた話では、ライブチケットは販売後一日と経たず完売したとか。ファンクラブ会員ですら、優先してチケットを手に入れられるのはわずか二千人だった。
枢木夏向のファンクラブ会員は僕を含め、有に三十万人を超えている。しかし倍率百五十倍以上だったにも関わらず、僕はチケットを手に入れられたのだ。実に運がいい部類の人間だったとつくづく思う。送られてきたチケットを手にしたとき、僕は今後数十年の間は良い事が起こらないだろうと確信した。
しかし、それでも良かった。
今日この場所で枢木夏向の姿を見られたこと、そして今こうして彼女を全力で応援できることが何よりの幸せだったからだ。
「みんな、ありがと――っ!! 前の人は勿論、後ろの人まで見えてるからね――っ!!」
枢木夏向は、曲の最中だというのに観客へ呼びかけていた。しかしこの言葉が、更に観客の勢いに拍車をかけ会場は盛り上がる。
それから僕の意識は、会場の熱気と自分自身の興奮状態に飲み込まれていった。
しかし突然、そんな僕の意識が急激に覚めてしまう出来事が起こる。枢木夏向が「次の曲が最後になりますが……」と発したからだ。もうすぐ終わってしまう、いつまでも居続けたいこの心地良い夢のような世界が……。
そう思うと、途端に寂しくなった。僕だけでなく、会場に居る誰もが彼女と過ごす時間が終わってしまうことに耐えられなかったようだ。
会場は一瞬にしてざわつき始め、至る所から口々に――
「え~っ!?」
「そんな、まだ歌ってくれよ――っ!!」
「嘘だと言ってくれ――っ!!」
「まだだ、まだ終わらんよ!!」
等と叫んでいた。
「みんな、ありがとう……。もうすぐこのライブが終わってしまうけど、でもそれはみんなと一緒に居られる時間が終わってしまうという意味じゃない。私はみんなに支えられて、今日という日を迎え、そしてこの場で歌うことができたの。だからどんな時でも私は、みんなの傍に居て歌い続けるから! だから最後まで……応援、お願いしますっ!!」
枢木夏向はそう言って、会場にいる僕たち観客に深々と頭を下げる。そして最後の曲、『ずっと一緒に……』を歌い始めた。
歌の最中だというのに、彼女は時々嗚咽を漏らすような上ずった声で歌っていた。僕はそんな姿を目の当たりにして、胸の奥からこみ上げてくる感情と同時に目頭が熱くなるのを憶えた。
会場の観客のほとんどが僕と似たような思いをしたのか、目を擦っていたり、中には鼻を啜ったりしている音も聞こえてきた。それでも……いや、だからこそ最後の最後まで彼女を応援しよう。
枢木夏向の姿を目に焼きつけるんだ、僕はそればかりを考えていた。
そして彼女は最後まで歌いきり、枢木夏向のファーストライブは無事幕を閉じた。会場は拍手喝采で包み込まれ、僕も無意識のうちに手を叩いていた。
終わってしまった。ライブ公演は二時間四十五分、あっという間に過ぎてしまったのだ。
僕はズボンの右ポケットに入れていた携帯電話を取り出して時間を確認する。携帯のデジタル時計は、確かにライブの始まった時刻から二時間四十五分が経過していた。やがて枢木夏向の姿がステージの上から消えると、会場の中に居た観客達が徐々に外へ出て行き始める。
しかし僕はライブが終わったというのに、一向にその場を動くことができなかった。放心状態とは、こういうことをいうのだろうか。
僕は今日、初めてアイドルの生ライブというものを体験した。しかも僕の大好きなアイドル、枢木夏向のライブなのだ。どれくらいの時間その場で立っていたのかわからないが、ついにはスタッフさんに促され、会場の外へ出てきてしまった。
後ろを振り返り、ライブ会場を見る。もしかしたら枢木夏向が出てくるかもしれない、そんな淡い期待も抱いてみたが、どれくらい待っても彼女が会場から出てくることは無かった。
ステージの上で輝いている彼女の姿が、目に焼きついて全く離れなかった――。
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