#176:未体験な(あるいは、グラツィア・プレーナ)
アクリル足場に憮然とした表情で立ち尽くしていた白金の歌姫こと葉風院ミコトは、その超低音で僕らの接吻をすんでで遮ったのち、いきなりふ、と鼻から息を抜いて表情を和らげた。あれ?
「ま、つっても、私も何だか毒気ぬかれちゃった感じ。あのコらもまあ、うまく収まった風だし、私らの負けってことでぇぇぇぇ、ぃぃいいわよぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
今度は耳をつんざく超高音だ。歌わないと喋れないの!?
「……でも」
す、っとその大声量を途切れさせると、葉風院は今度は悪そうな笑みを浮かべる。
「このままタダで帰ったんじゃあ、ダメディーヴァの名が泣くってなもんよ。それにこちとら元老院の一角を張ってもいんだしさあ!! この『ババノ=ダカタ』の気高き名に懸けてぇぇぇ、対局相手のあなたたちや、オーディエンスたちにぃぃぃぃ、何かしらの爪痕残さないわけにはいかないのよぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
そう言う葉風院の絶唱だけど、もうその圧倒的なボイスは充分堪能させていただきましたって。
なかば胸焼けのような感覚を抱きつつ、僕は、ああこの人もおミソ寄りの元老ネームを標榜してたんだぁー、しかもそれ気に入ってるぅーとどうでもいいような事を真顔のまま思い浮かべていた。
「……歌を歌うわ。あんたら達への、はなむけの歌を。だからぁぁぁ、少し時間をちょぉぉだいぃぃぃぃ、ものの~5~ふん~だけ~」
もうすでに歌っとるやーん、という突っ込みはおそらく何も生み出さないと思ったので僕は黙っていた。それとは真逆に、観客たちのボルテージは最高潮だ。何だろう、この二次会カラオケの締め感。
「……ムロトちゃん、あんたは最高よ。女として尊敬するし、女として惚れてしまうわ」
僕? 僕に葉風院の妖しげな目線は向いていた。相変わらずダメ界では無類のモテを発揮する僕だけど。いやあ、僕もう心に決めたヒトが……
「だからこの歌をあんたに捧げる。平常心平常心言ってたけど、平常心なんて乖離してなんぼよ。てめえが平常なままで、相手の心を震わせるような歌が歌えますかっての」
にやりとしたその顔は、ああ僕はもう何度も見ている、プロフェッショナルのそれだった。僕は何だかこのヒトに対しても、心の底から尊敬の念を感じるようになってい……
「っとその前に発声練習、発声練習っと……、あ、あ、……あの~、あの~、……あの~日なんの日、血が出る日~」
野郎ッ、と気色ばむ僕をサエさんが羽交い絞めにして押さえている間に、葉風院は本当に発声練習だったようで、そんな発声練習あるかっ、と苦々しく思う間もなく、次の瞬間、透き通るようなソプラノが、優しく、そしてたじろぐほどの強さを持って、球場全体を埋め尽くすかのように満たしていった。
「……」
奇天烈な下ネタソングじゃなかった。聞いたこともないような、荘厳で、優美で、どこか切なげなアヴェ・マリアだった。
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