夢の鯨
勇今砂英
夢の鯨
私は鯨だ。
ずっと海の底に潜っていたいのに、
呼吸するために水の上へと上がらなくてはならない。
「ラフィーナ、今日は君にお願いがあるんだ。」
「どうしたの、ジョージ、改まって。」
ラフィーナはわざと驚いたフリをした。
金色の夕日とミモザの咲き誇る甘い匂いの風の中、
僕は彼女の前にひざまずいた。
「僕と結婚してくれないか?」
僕は笑顔だったけれど、指輪を掲げたその手はどうしようもなく震えていた。
しばらく口を手で覆っていたラフィーナは、やがて今まで見たどれより美しい笑顔で
「もちろんよ。」
と答えた。
彼女に差す光の束が彼女を女神にした。
僕は涙ながらに彼女を抱きしめ、そして優しく口付けを交わした。
冷たい空気の漂うだだっ広い寝室のベッドでジョージがヘッドギアを外すと、脇で端末の操作をしていたモルフィナが彼の方へ振り返る。
「いかがだったかしら?『イケロス』の使い心地は?」
「・・・素晴らしいよ。あの日のあの場所にまさに居たんだ僕は。」
モルフィナは目は涼やかなまま口元だけ緩ませた。
「これで私の仕事はお終い。後はあなたの好きな時にイケロスを使って過去の夢を見ればいいわ。」
短い黒髪に黒い瞳、黒いスーツに黒い手袋に黒い革靴。真っ白な肌に真っ赤な唇の彼女は黒いアタッシュケースに端末を仕舞いこむ。
「これでこの
「忠告をひとつだけ。現実を忘れないようにね。」とだけ残し去っていった。
「ラフィーナ、ああラフィーナ!」
僕はラフィーナを追いかける。彼女は青いワンピースに白い花冠をつけて笑いながら逃げ回る。
彼女を後ろから抱きかかえるように捕まえると僕らははずみで一面の花々の中に沈み込んだ。
二人ともおかしくって腹を抱えるように笑い合う。
「幸せね。私、今が人生で一番幸せ。」
「僕もさ。今僕らは世界一の幸せ者だ。」
『愛してる』二人の声がかさなり、また僕らは笑い合う。
気がつくと僕らは子どもになってた。
「今日はとても楽しかったわ。」
「また遊ぼうね。」
「うん。約束するわ。ジョージ。」
「きみの名前を教えて。」
「私はラフィーナ。」
「ラフィーナ、またね!」
「またね!」
僕はいつまでも手を振っていた。
ジョージがこの部屋に幽閉されて幾年かが過ぎていた。
彼はモルフィナが最後に訪ねてから、監視役の軍人2名と世話役のメイド以外の人間を見ていない。
何もない生活というのもつまらないもので、日がな本や新聞を読みふけるか、メイド相手に世間話をするのがモルフィナが来る前の彼の習慣であった。
ある日、彼は唯一見ることが許されている新聞の広告欄に、『ニュクス』の名を見つけた。厳しい検閲の入った新聞は広告に至るまで不適切と判断されたものは黒く塗り潰された状態で彼の元にやってくるので、その日ニュクスの文字を発見したことはおそらく新政府も承知の事と思われた。
ジョージはそれがわかっていたにも関わらず、ニュクスに連絡を希望する以外の選択肢は持たなかった。
『我々ニュクスのイケロスは貴方の一番美しい記憶を夢として提供します。』
夜はジョージにとって恐ろしいものだった。日中、光のあるうちは、生活をしているうちは紛れている、いずれ迫り来る死の恐怖が、夜、一人で眠る時には強大な影となって闇とともにジョージを襲う。いくら拭い去ろうとしても拭いきれず、結局朝方になってから眠る、という事が続いていた。
そんな彼にとって、この『イケロス』との出会いは夜の恐怖から逃れる唯一の手段であった。
毎夜毎夜ジョージは過去の夢を見る。
幼馴染で妻のラフィーナとの甘美な日々。
「大統領就任おめでとう。」
「ありがとう。これも全ては君の支えのおかげだよ。ラフィーナ。」
「これから貴方がこの国を変えるのね。」
「ああ。見ていておくれ。きっと素晴らしい国にして見せるよ。」
『来るな!これ以上近づくな!』
突然の予期せぬフラッシュバックにジョージは飛び起きた。まだ辺りは暗い。
「なんだ今のは・・・なぜ今あの日の事が。美しい記憶のみを見られるはずじゃ無かったのか?」
戸惑うジョージ。しばらく迷ったがまたヘッドギアを被ると、今度は朝まで美しい夢を見られた。
目覚めたジョージはニュクスに宛てた不具合の報告を記した手紙をしたためメイドに託した。しかし何日経っても返事は来なかった。
「ラフィーナ。実は君にお願いがあるんだ。」
「どうしたの、ジョージ、改まって。」
金色の夕日とミモザが
「ゴゴッこ、こ、」
「シュ、ビシュ、む。」
「死ぬの?私たち。」
「誰だ!お前たち!まて、ラフィーナをどうする!おい!やめろ!」
「やめろ!」
鯨は座礁した。
全身から流れる汗。あれからひと月ほど。ジョージの夢はますます劣化の一途をたどり、悪夢に蝕まれていた。こうなるかも知れないとは初めから予感していた。そして、イケロスを手放す事すらできないようになる事もわかっていた。最近はメイドも軍人も見かけない。しかし部屋は頑丈に施錠されていて外に出られない。窓の外は超高層階になっていて脱出不可能だ。
「もう夜が何日も続いている。
ああ、あの女、なんと言ったか。モルフィナ。あの女にもう一度あわせてくれ。」力なくやつれた手で顔を覆い尽くしながらジョージはつぶやいた。
遠くから足音がする。
部屋の扉が開いた。ジョージがその方を見やると、そこには短い黒髪に黒い瞳、黒いスーツに黒い手袋に黒い革靴の女が立っていた。
「モルフィナ。来てくれたのか。お願いだ。助けてくれ。」
ジョージに近づいてきたモルフィナは彼の唇を人差し指で抑え、
「言ったでしょう、現実を忘れないようにねと。
最初で最後よ。目覚めた後貴方がどうするかはご自分でお決めなさい。」
そう言うとスーツの内ポケットからピストルを抜き出し、ジョージの額に押し当てた。
『バン!』
西日の眩しさに目をこする老人が長い悪夢から目覚めた。彼は自宅のダイニングの窓際でロッキングチェアに揺られていた。
「私は鯨だったのだな。」そう呟くと彼はゆっくり起き上がり書斎に向かう。
本棚から数冊の分厚い本を抜き取ると、その奥に隠してあった菓子の四角い缶を取り出した。
テーブルにそれを置き、蓋を開けると中にはピストルが入っていた。
彼は丁寧に銃口をこめかみにあてがった。
「ラフィーナ、会いに行くよ。」
「ラフィーナ!ラフィーナ!」
「久しぶりね、ジョージ。」
金色の道の向こうに彼女は立っていた。子どものジョージは一生懸命に呼びかけた。
「会いたかったよ。ラフィーナ。きょうは何して遊ぶ?」
「聞いて。ジョージ。」
「なあに?」
「私、もうここには居ないの。」
「え、どういうこと?」
雨の降りしきる景色を窓越しに見つめる女に向かって電話を置いた口髭の男が話しかけた。
「モルフィナ、ジョージ元大統領が自害したそうだ。」
「そう。本当にこれでよかったのかしら。」
「本来軍事裁判の上極刑は免れぬであろう状態だった彼が、仮初めとは言え我らの手でつかの間の
「思い出と心を壊す機械なんて、どんな兵器より恐ろしいわ。」
「それを扱うお前は死神だな。」
「・・・・。」
女はただずっと雨の降る景色を眺めていた。
「え、どういうこと?」
「私は新しい命になったの。だからここにいるのは私の残した貴方への想いなの。」
「これからどうなるの?」
「大丈夫。貴方が恐れる事はないわ。
———はやく、私に会いに来て!」
美しい微笑みをたたえた彼女は光の粒になった。
そしてその光はみるみる間に大きくなりジョージの視界を覆い尽くした。
私は
急速に薄れゆく記憶。言葉すらうばわれてゆき、わたしは ただなくことしか・・・
とある病院の一室。そこは明るい空気に満ち満ちていた。
疲れ果てながらも達成感と喜びに微笑む女。その手をとり涙を流し喜ぶ男。それを見守る医者と看護師たち。
大声をあげて泣き叫ぶ赤ん坊。
彼は溢れる希望に包まれ、最高の目覚めを得た。
夢の鯨 勇今砂英 @Imperi
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