第24話 もう「噂」になってる

「スマホ?」

「ああ、うん」

 一花の髪から水が滴る。でもまだそれほど長くはないからタオルドライだけでもほとんど乾いてしまう。男の子のように、髪を拭いていた。

 不用意に勘ぐられるのは良くないと思い、ディスプレイをオフにしてテーブルにスマホを置く。

「始めてみたら面白いアプリがあってさ」

「ふぅん。わたしはそういうの疎いからよくわからないな」

「一緒にやる? ただのパズルゲームだよ。スリーマッチゲーム、知ってる?」

 スマホをわざとらしく大きな動きで持ち上げる。アプリの詳細画面を見せようと操作する。

「いいよ、本当に苦手なの。ドキドキしちゃってダメなの」

 退散という言葉が似つかわしく、一花はドライヤーを当てに行ってしまう。僕は一花に見せようと手に取ったスマホをもう一度わざとらしく置く。

 ため息しか出ない。

 一体、自分は何をやっているんだろう?

 変なヤキモチを妬いたりする自分に呆れていた。今までも一花のことで、小野寺と連絡先を交換していたりイラッとすることはあったけれど、決定的に妬くことはなかった。それは一花がすべてを預けていてくれたせいもあるし、僕たちの間に入ろうとするヤツはこの1年半、本当にいなかったこともある。一花はいつでも僕を見てくれたし、僕は一花だけを見ていた……。


 そんなことをぼんやり考えていると髪の乾いた一花がベッドにぴょんと飛び乗ってきて、ふざけて僕を押し倒した。

「うわ、危ないよ」

「だって最近あんまり構ってくれないんだもん。勉強が忙しいってことはわかってるけど、やっぱりさみしい」

 僕の肩に鼻を押しつけるように、一花は抱きついてきた。仕方なく、その背中を撫でる。

「こうやって毎日一緒に居るのに?」

「……一緒にいるからって心も一緒にいるかはわからないよ」

「一花、そんなこと考えてたの?」

 一花はそっぽを向いた。彼女の瞳を覗き込んでその真意を確かめようと思ったけれど、彼女は巧妙に隠れて僕にそうさせなかった。

「風呂、行ってくるよ」

 小さな頭を撫でてそう言うと、返事は返ってこなかった。






 澪の送ってくれた日課表のお陰で、僕は無意味に図書館前に座る必要がなくなった。寒さが上着を通す季節になって、それはありがたかった。

「待ちました?」

「いや、さっき来たところ」

 会うには会っても僕たちが一緒にいられる場所は限られていた。人前では手も繋がず、あたかも偶然会ったかのように振る舞った。僕の左手は澪のためにいつでも空席で、他に捕まえておきたいものはなかった。

「どうして難しい顔?」

「うん……、なかなか上手くいかないなと思って」

 澪は肩にかけていた大判のストールをさりげなく膝の上に広げた。

 澪と知り合うまでは物事はどんなことでもわりとスムーズに進んでいくものだと思っていた。それがどうだろう? 澪のこととなると、まるで上手く進まない。

「上手く行きますよ、心配しなくても。一花さんは丞を置いて行ったりしないし」

「それ本気で言ってるの?」

「本気ですよ……。妬けちゃう。どうしてそんなに仲がいいんですか?」

「澪は僕と一花に別れてほしくないの? 一度もそう言わないけど」

 彼女は自分の膝に置いた手を下に滑らせて、ストールのフリンジを撫でた。

「言えない……。丞とこうやって二人でいられる時間が持てるだけしあわせで。別れてなんて言ったらバチが当たると思う」




「もうダメなの?」

 突然そう話しかけられてギョッとする。振り返ると後ろの席には以前のように小野寺がいた。

「何の話?」

「知らないわけないだろ? 一緒にいるの、何度か見たよ」

「ああ……」

 人の噂になるのは瞬く間のことだ。それを以前教えてくれたのは小野寺だった。僕はまったく進歩がなかった。

「オレが何度か見たってことはさ、一花ちゃんも含めて他のやつも見たってことになると思うよ。

図書館前なんて、キャンパスの中心だしな」

「そうかもな」

「一花ちゃんとは別れないの?」

「……どうしたらいいか、いい考えがまとまらなくて」

 小野寺はいつになく真剣な顔をした。そうして僕をじっと見ると、

「バカだな、お前。『いい考え』より、今の状態が続くことの方がずっと悪いだろ?」

「そうかもしれないな」

と言った。

 小野寺は僕を責めるようなことは何も言わなかった。ただ友人として相談に乗ってくれた。僕の口数が少ないことにも何も言わなかった。

「別れた方がお互いのためだと思うけど、一花ちゃんを一人にするの、気が引けるのはわかる気がするよ。彼女、一人でいられそうなタイプじゃないから、松倉が迷うのもわかる気がするよ」

「確かに言い出せないのはそういう理由も含めて、なのかもしれない」

 一花には僕が必要なのか、決めるのは彼女なんだろう。だけど僕に必要なのは誰かということを、僕はもう心の内で決めてしまっていた。

 小野寺は呼ばれて、相田さんが待っている席の方へ戻って行った。






 講義が終わると、図書館のエントランスで澪を待つ。それが毎日の日課だった。今日は金曜日で一花は帰りが遅い日だった。

 澪はいつも前髪に手をやりながら恥ずかしそうに僕の前に現れた。僕の姿が見えなくてあわてているときでも焦ると前髪に触るのが澪の癖のようだった。今日もまた、照れくさそうな顔をして僕の目の前に現れた。

「遅くなって」

「そんなことないよ」

 時間はいつもに比べてたっぷりあった。僕たちは読み逃している一般文芸の本を何冊か、それぞれ借りた。

「重くなったね」

と言うと澪は、ふふ、と笑った。

 外に出ると空はとっぷり暗くて、図書館のオレンジ色の明かりだけがバースデーケーキのろうそくのようにぼんやりと光って見えた。誰も見ていない中、僕たちはそれまでの分も手を繋いで歩いた。

「なんか、開放的」

「それはよかった」

「わたし、ふわっとした気分」

 人の姿が見えないキャンパスの小道で、澪はくるっとふざけてターンして見せた。そんな彼女は見たことがなくてやけにうれしくなる。

「珍しいね、そんなにはしゃぐの」

「丞といられるのがうれしいって変かな?」

「変と言うよりむしろ、うれしいけど」

 どちらからというわけでもなく辺りをもう一度見回して、前後に人が来ないことを確認して、ぎゅっと抱きしめてから唇を重ねた……。「初めて」の次だった。僕たちはいつも近くて遠かった。

「腕を……組んでみてもいいですか?」

「もちろん。突然、どうしたの?」

「……誰も見ていないから、何をしてもいいんだと思うとうれしくて。おかしいですよね?」

 複雑なのは今の状況と今の気持ちだった。こんなふうに想える誰かを見つけたのに、他人の目のあるところでは何もしてあげられない。大学にはそれこそたくさんの人がいる。その中に紛れてしまっても、どんなに小さなことでも人目が気になるのは、それは誰かに対して後ろめたいことをしているせいだった。

「考えたんだけど……別れようと思うんだ」

 僕と腕を組んだままの姿勢で、顔を上げることもなく澪は呟いた。

「……わたしには『別れて』って泣いたりするのは無理ですよ。『別れよう』って言われたら素直に頷いてから、後悔しますけど」

「澪のことは守るよ。どっちみち、僕たちの噂が伝わるのはあっという間だよ」

 もう噂は広まっていた。澪との仲をはっきりさせることが、真実こそが、逆に彼女を噂話から守れるんじゃないかと思っていた。

 彼女の長い髪が俯いた時にするりと顔を隠した。何を考えているのかわからなくて不安になる。しばらくの間、沈黙が二人を包んだ。

「遼くんに言われたの。『松倉を好きになっても無意味だ』って。本当にそう思う……。一花さんと丞は誰が見てもお似合いのカップルで、そこにわたしが割って入るなんてそんな考え、どうかしてると思います。そんなことしちゃいけないと思うのに」

「田代の言うことなんて気にしなければいいじゃないか。澪には澪の目で僕を見てほしいし、一花と一緒じゃない僕だけを見てほしいんだよ。見れない? そんなふうに」

 彼女は躊躇っているようだった。僕のことを本当に好きなら、どうして僕を独占したがらないのか不思議だった。僕はどうやっても澪を独占したかった。大きな声で、彼女は自分のものだと宣言したかった。

「僕を見て」

「見てる。ずっと見てたし……。わたしだって初めて会った時から……」

「じゃあ、信じてくれないの?」

「信じたい。……わたしだけの丞になってくれますか?」

 辺りは相変わらず真っ暗だった。舗道を照らす街灯の明かりが、その足元に丸い光の輪を描いていた。寒さだけが耳にこだまして僕たちの体を冷やした。

 澪の、前髪の奥にある瞳には僕だけが映っていた。僕はこのときをずっと待っていた。

 そのまま手を繋いで駅までの道を歩く。小道を出てしまえば暗い中ではあったけれど街灯も増え、たくさんの学生とすれ違うことになる。知り合いもいるかもしれない。それでも僕たちは手を離さなかった。改札口の蛍光灯が眩しい駅構内まで手を繋いで歩いていっても、澪はそのことについては今日は何も言わず、

「連絡しますね」

といつものように甘く囁いた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る