第25話 誰の目も気にしない
帰るとまだ一花は戻っていなくて、寒々しい部屋に暖房を入れる。音のない部屋は誰もいないさみしさを増長させて、それを紛らわせるために上着を着たままテレビの電源を入れた。
投げてあったリュックからごそごそスマホを取り出すと、メッセージが届いていた。四角いその小さな通信機器を握る手のひらが、心なしか温かい。
『うれしいって素直に言えなくてごめんなさい。でも、わたしのために無理はしないでください。つき合いが長かった分、時間をかけて話し合って。待てるから、大丈夫』
いっそ、「待てない」と言われたかった。「待てる」と言う彼女の真意がわからなくて返答に迷う。欲しいなら欲しいと言ってほしいのは僕だけなのか……。
『たまにはワガママを言ってほしいんだ』
パッと既読がついて間を置かず返事が来る。
『ワガママは苦手なんです。人を退けて自分が前に出ることは子供の時から苦手なので』
『もう隠れるのはやめよう。明日からは堂々と会おう』
『そんな度胸ないかも。噂になったら丞に迷惑がかかっちゃう』
誰に何を言われても関係ないと思った。好きな人と手を繋いで陽の光の下を歩くことができないのはおかしいと、そう思っていた。
「ただいまー。今日も埃っぽいし遅くなっちゃったし、イヤになっちゃう。外、もう真っ暗だし。悪いけど先にお風呂、入るね」
一花はてきぱきとお風呂に入る支度をして、僕に話す隙を与えないほどだった。夕飯の支度くらい手伝うべきなんじゃないかと思って冷蔵庫を開ける。
「一花、今日の夕飯なんだけど」
「あ、買い物してあるから大丈夫だよ」
「何か買ってくるよ」
返事を聞かずに上着を着て、財布を持って部屋を出た。当たり前のように二人で同じ部屋の中で同じ空気を吸っているのは、辛くなってきた。一花の望むような今までの僕ではいられなかった。蛹の中でアオムシがチョウに体を変化させるように、僕の中で何かが完全に変わってしまった。
夜の空気は突き刺さるようで、常夜灯のようなコンビニの青白いLEDが、周りの温度をさらに下げているような気がした。
「ねえ、実習のある日でもきちんと夕飯作るから、無駄遣いしちゃダメだよ」
「悪かったよ」
「コンビニのお弁当が食べたい気分だったの? たまにそういう日もあるよね?」
一花は僕の目をそっと覗き込んだ。何かを見透かされそうでドキッとする。だけどもう、それに流されて素知らぬふりをするのはやめることにしたんだ。
ガサガサと空の弁当箱を袋に入れて、脇によける。少し遅れて食べ終えた一花が、電子ケトルでお湯を沸かし始める。水がお湯に変わっていく音がぐつぐつと聞こえる。言い出しにくい言葉が、喉の奥につかえてなかなか飛び出さない。
「一花……あのさ」
それまでお腹いっぱい、と微笑んでいた彼女の表情がピタリと止まった。
「――うん、言わないで。いつかその時が来て、それを言われても言われなくても、わたしは知らないふりをするって決めたの」
「……」
何も言わなくても、もう伝わっていた。それは図らずも僕にいくらかの衝撃を与えた。どう切り出そうか、そればかり何日も考えていた。切り口さえ見つかれば、この問題はドミノ式に解決するとそう信じていた。
「君が、何を言ってもそんなの信じない。わたしの方が間違っててもそれでいいの」
「そういうわけにいかないよ、僕は」
「いいの。わたしのことは放っておいて。それで傷つくことになっても構わないから」
「一花……僕の話を聞いてくれない?」
「聞く必要ないの。他の人たちにいろいろ聞かされたし。君がもし話があるって言い出したらきっとそのことで、わたしはただの噂だって信じたかったけど……」
一花は下を向いて唇をキュッと噛んでいた。そうして、膝の上で小さな手をぎゅっと握りしめて動かなくなった。カチン、とケトルが止まる。
「ごめん」
「謝られるのがいちばんキツいよ。もう蚊帳の外なんだって思い知らされるから」
「蚊帳の外?」
「君の世界の外側。するりと、代わりに入った人がいるんだよね? ずっとわたしの場所だったところに」
「……」
「わたし、絶対に今の場所を下りない」
一花の言う嫌味なんて聞いたことがなかった。彼女はいつでも真っ直ぐであろうという人だったし、実際、その通りだった。一花の口からするすると紐のように出てくる言葉に耳を塞ぎたくなった。そして、それを言わせているのは紛れもない僕だった。
澪は翌日も図書館前に現れた。
「もうずいぶん寒くなってきたのに、何も毎日コンクリートの上に直に座ってなくても」
彼女は僕のところに来ると、開口一番そう言った。周りを見ると、僕がここに座り始めた頃と比べて確かに同じような人は減っていた。彼女は暖かそうなウールの短めのコートに、ブーツという出で立ちだった。もう足首は見えない。
「ここで待ってるのが好きなんだよ」
日課表を見て、闇雲に会える時間を見計らうような時期は過ぎて、今では何曜日は何時に、というのが無言のうちに決まっていた。でもついてしまった習慣というのは突然変わることは無いし、澪が来るという気持ちの高まりが彼女をここで待つ度に僕の元に訪れた。約束、という言葉の甘い響きに酔わされた。
よいしょ、と立ち上がって、昨日の予告通り澪の手を取る。澪の手が戸惑って緊張する。僕は繋いだ手の力を強める。彼女はそれを感じていつもは伏せ目がちな目を僕に向けて、僕は彼女に微笑む。
「本当にいいの?」
「何がいけないの? 澪は手を繋ぐのはイヤ?」
「……イヤじゃないから困る。わたしなんかでいいのかなって」
「澪がいいのに?」
「わたしなんて、そんな価値はありませんよ」
せっかく手を繋いで歩き出したのに、彼女はまた下を向いてしまう。どうしても上を向かせたくなって手を強く引く。
「今日はお昼、学食で食べよう。この後2限終わったらさっきのところで待ってるよ」
「え? 学食なんて本当に噂になっちゃうから」
「……噂になったら澪は困るの?」
まつ毛が瞳に影を落とす。茶色い瞳がダークブラウンに変わる。
「噂になら、もうなってるよ」
昼時の学食は当然のように混んでいて、僕たちも人波に流される。見た事のある顔が無いわけではない。それでも二人だけで人の間を縫うように歩いていく。
「何にするか決めた?」
「……あの、本当に一花さんと約束ないんですか?」
「その話をする必要は無いんだよ」
会計をして席を探す。僕たちは何とか空いている席を探して座った。
「どうしちゃったんですか?」
「ああ……」
言わない訳にはいかないよな、と思う。きちんと物事は説明しなければならない。
これから澪と一緒にいるつもりなら、今を越える必要があった。
「一花に、別れ話をしたんだ」
澪の目が大きく見開かれて、彼女の心情がよく伝わってきた。そうだ、ちょっと前の僕だってこんなことが起こると思ってなかった。
「一花さん、何て?」
「聞きたくないって言われたよ。もう知ってるって。僕たちが隠していたことはみんな噂になって、一花の耳にも届いていたって」
「……わたしなんかが、やっぱり一花さんの代わりにはなりませんよ」
「代わりじゃないよ」
何か言いたげな顔を一瞬彼女は見せたけれど、その後ゆっくり下を向いて食事を始めた。二人で初めて人の目を気にせず学食に来てみても、そこには会話はなかった。気まずさだけが残って、何のために気を張ってきたのか、わからなかった。
「あの……いつでも手を繋いでるのは不自然じゃないかと」
「そうかな? 誰の目も気にしなくて済むなら、大っぴらにいつでも繋いでいたいけど」
ふ、と彼女の表情がやわらかく弾けた。今日、いちばんいい笑顔だった。僕は少し安心した。
「そうですね。せっかく繋いでいられるなら繋いでいてもいいのかもしれません。誰かにダメだと言われるまで」
そう言うと、澪から指を絡めてきた。絡められた指はもう二度と離れないと言っているようで、僕の気持ちも絡め取られる。二人で食後の散歩をして、今日は図書館前を通らずに澪の学部まで送っていく。そんな、普通の恋人たちには当たり前のことが僕たちには今まで足りなかった。
別れ際に澪は振り向いて、今まで見たことのないようなくつろいだ笑顔で僕に小さく手を振った。
次の時間は実験で遅れるわけにいかず、ロッカーに白衣を取りに僕は急いでいた。学部棟の廊下を早足で歩く。
と、ロッカーの近くまで来たところで声をかけられて、うんざりした気持ちになる。
「見たよ。澪の彼氏気取り?」
田代だった。
澪のことを地味だとか目立たないとかマイナスなことばかり言っていたのに、なんで彼女にそこまで固執するのかよくわからずにいた。それとも言葉と気持ちは裏腹だったんだろうか? だとしたら浮気をしたという話はどうだったんだろう?
「お前にはもう関係ないだろ?」
「まだ『別れる』って言ってないよ」
僕はヤツの目をじっと見た。そうしたかったわけじゃないけど、ヤツの言葉にそう動かされた。
「澪は、別れたいって言ってる。第一、他に好きな子がいるんじゃなかったのか?」
「それは本気じゃないよ。澪とは全然違うよ」
「……よくわからないな。澪に不満があるから他の子に手を出したりするんじゃないのかよ。夏休みの間、澪が毎日、どう過ごしてたか知ってるか? お前がいない間、他の女と遊んでる間、どんな気持ちでいたか」
田代は、そんなこと何でもない、という顔をした。強い感情は見られなかった。相変わらず何を考えているのかわからなかった。
「松倉、お前、思い違いしてるんだよ。お前より俺の方が澪のことを深く知ってるんだ、どんなことでも。お前に澪が何て言ったのか知らないけど、休みの間、俺と何回か会った時の澪のこと、お前は知らないだろう? お前がなんて言ったって澪はまだ俺のものだし、澪を深く知ってるのは俺の方だよ。そのうちわかると思うけど」
お先に、と言って田代は去って行った。
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