第23話 初めての温もり
教授の話は今日も聞き取りにくく、英語で重要な語句を書き連ねるだけの授業は板書を取っただけではいつも通りわかりそうもなかった。食いついてわかろうとしなければ、ただ通り過ぎていく時間だった。
向こう側に、田代が見える……。
田代とはもう会わないとはっきり澪は言った。彼女は嘘をつくだろうか? 僕の知る限り、彼女にそんなところはない。けど僕も完全に否定できるほどそこまで彼女をよく知っているわけでもなかった。
退屈な講義が終わって、スマホを開く。
『5コマが終わったら図書館のエントランスに行きます』
『待ってる』
画面を切り替えて、一花にもメッセージを送る。調べものがあるから遅くなる、と。一花はなんの疑いもなく、先に帰って夕飯の支度をするという返事が届いた。
澪の授業が終わるまでの1時間半、専門書のあるコーナーで考え事をしながら、さっきの講義の復習をする。分厚い専門書はまだ日本語訳が出ていなくて、辞書と用語辞典を駆使して読解していく。なんとか今日の講義のページを見つけ出す。
澪は今、何をしているんだろう? もちろん講義を受けているに違いない。わかっているのにどうしてこんなに不安なんだろう? ……自信がないからだ。彼女が手の中にいないことが、こんなに不安を生み出す。
ぼんやりと澪のことを想って、時間ばかりが過ぎる。専門書を戻して、エントランスに向かう。
僕のやって来た気配に、彼女はハッと振り返った。エントランスに掲げられた大きな掲示板を見ていたようだった。
「どうしたんですか? 5分でも、なんてけっこう強引で驚いちゃった」
出よう、と先に立って歩く。夕闇がやって来て、そろそろ秋も終わりかけていることを告げる。僕はサークル会館へと続く、人気のない細い通りに向かった。
「ここなら、ゆっくり話せるかと思ったんだけど、寒い?」
「寒いと言えば寒いけど、大丈夫。すぐにしたい話があるんですよね? 一花さんが待ってるなら早く話を終わらせないと」
攫ってしまいたかった。誰にも触れないどこかに。僕以外の誰にも触らせたくなかった。
「――! こういうの……ダメですよ」
「どうして? お互いに好きなら何も問題ないじゃない?」
「問題ならあるじゃないですか? 言ったでしょう? わたし、丞を好きだって気持ちでいっぱいになっちゃうって。ましてキスなんてされたら……忘れられない。丞がやっぱり一花さんを選ぶ時に、忘れられないと困るから」
二度目のキスも、やはり強引なキスだった。澪は顔を背けようとしたけれど、そのまま続けるうちに抵抗せず受け入れた。
「……一花さんのとこに早く帰って? 待ってるでしょう」
「そんな感想はないと思うんだけど。初めてしたのに」
「初めてなのに、丞が強引にこんなことするなんて思ってなかった。……嫌だったわけじゃなくて、しちゃいけないって思っただけで」
向かい合った彼女の両手をそっと握る。二人の手のひらに、キスの温もりが残っているような錯覚を覚える。
「僕と会ったあと、田代と会った?」
そんなことを聞くのは最高に情けなかった。自分がどこまで堕ちてしまったのかと思うと胸に鈍い痛みが走った。怖くて、澪の顔が見られない。
「……。まだ会うこともありますよ」
傷口が疼くように、痛みはじわじわと広がっていく。
「お昼に田代と約束してたって聞いてなかったから……一花が二人を見たって聞いて驚いたんだ。どうしてキッパリ別れないの?」
「話し合いがもつれてるから。もっと詳しく話した方がいいですか?」
彼女の真摯な姿を見て、肩の荷が下りる。一花の話を聞いてからずっと、神経が張りつめていたことに気がつく。
「ごめんなさい……。別れるのって、自分からだと難しいんですね」
目の前に捕まえたはずの澪がまたふっと遠く離れたような気になる。どこかに触れていたくて、彼女の髪を撫でる。どこにもやりたくない。
「ねえ、僕のものにならない?」
以前、田代が使っていた不快な言葉を自分も使う。あの時は田代を軽蔑した。……そうだ、僕は澪を所有したいんだ。綺麗事だけでは済まず、欲望が渦巻く。誰にも触る権利を与えたくない。
「あなたのものに、すんなりなれたら話は早いんだけど」
彼女は苦笑した。言えない何かを隠したような表情だった。その通りだった。僕たちはみんな、もつれていた。
「とにかく、もつれてはいるけど遼くんと別れ話はしていますから」
「信じていい?」
「……信じなくてもいいですよ。それは丞の自由だと思う」
「わかった。抱きしめさせて。澪の形を覚えたいんだ」
「一花さんは?」
僕の腕の中で体をきつくして、澪はそう聞いた。ここではもう「一花」という名前は何かの呪文のようだった。
「先に帰ったよ。今は、澪だけ」
「わたしだけの……」
彼女の腕がそっとなぞるように背中に回され、やがて定位置を見つけたように背中を撫でた。寒いと思っていた背中にも急な温もりを感じて、彼女の頬の脇の髪をかきあげて、3度目のキスをした。今度は彼女もやさしくそれを受け止めた。
図書館前に停めた自転車を二人で手を繋いで取りに行く。まだ薄い闇でも僕たちの繋いだ手を隠すには十分で、誰の目も気にせずに手を繋ぎ歩く。澪の体が心なしかこちらに傾いている気がして、体温が近い。
カラカラとスポークが風に吹かれる落ち葉のような音をして回り、僕は澪を駅まで送る。自転車を停めようとして、澪に声をかけられる。
「いいですよ、ここで。構内は明るいし、誰に見られるかわからないし」
「見られたらまずい?」
「わたしより丞が……。わたしは遅れてきたんだから、追い抜くわけにいきません」
「嘘が下手だね、澪は。帰ったら連絡して。何時でも待ってる。最近、サイレントでも着信に気がつくようになったよ」
「バカ……」
じゃあ、と手を振って足早に彼女は駅の構内に消えていった。
「おかえり」
帰ると鍋つかみを手にした一花が、テーブルに鍋を運ぶところだった。
「あ、ダメ。丞、急に入ってこないで。鍋、落としちゃう」
「ごめん」
僕は部屋の入口で足止めされて、彼女が火傷をしないで済むように見守った。一花は無事に仕事を終えると、テーブルにポン酢と取り皿を並べた。
「ほら、手、洗ってきたら?」
「うん、遅くなってごめん」
それ以上は何も喋らず、黙々とご飯がよそられ、箸が並べられて行った。
「ごめん、何も手伝わなくて」
「大丈夫だよ、これくらい一人でも」
「4コマの教授、厳しくて講義についていけないんだ」
「そうなんだ」
一花はにこりとも笑わなかった。どうやら遅く帰ってきたことで機嫌が悪いようだった。
「どうしたら、機嫌直してくれる? ストロベリーアイスでどう?」
「寒いから早くご飯食べて、お風呂に入って」
これ以上怒らせても仕方が無いので、カバンを下ろして上着を脱ぐ。一花がわざわざいつも通りにハンガーにかけてくれる。一花の置いた除菌ソープで肘までよく手を洗って、食卓に着く。
「いただきます。湯豆腐だね」
「そう、簡単に出来るから……君、今、勉強大変なんだね」
「え? どうしたの、いきなり」
「最近、忙しそうだから今日ね、図書館にこっそり様子見に行ったの。参考図書と用語辞典使って、難しい文章に取り組んでるんだなぁって声かけないで帰ってきたの」
「……」
一花の顔はよく見えなかった。彼女の顔はお茶碗の方に向いていて、表情を読ませてくれなかった。空気が乾いていた。
「最近、図書館によく行くのもそのせいでしょう? わたし、しばらくここ、出ようか? 勉強の邪魔になるのは本望じゃないし。君が心配してくれたみたいに、わたしも君の役に立てるように」
一花の視線がこちらを向く。試されているような気になる。目を逸らせたいと思うけど、そうすると何かが彼女に知られてしまう気がして気が抜けない。隠さなければいけない、と何故か強くそう思った。
「心配しなくても大丈夫だよ。僕を悩ませているのはその講義と、ドイツ語だけだから。一花が心配するようなことになってないよ」
「そう……。それならよかった。どうして家で勉強しないんだろうって思ってたんだけど、あの厚さの参考書なら納得。持ち歩けないよね」
「しかもあれ、禁帯出なんだよ」
「そうなんだ。じゃあ尚更、学校での勉強、邪魔しないようにしないとね」
ご飯の後片付けをしたあと、お風呂に行った一花を見送ってスマホをカバンから手に取る。やましい気持ちは抱えきれないほどだった。
『無事に帰りました。あの、やさしくしてくれてありがとうございました。忘れないと思う』
『またするから、忘れちゃって構わないよ』
『もう! どこまでが本当でどこからが冗談かわからないんだから』
スマホの前で思わず笑い声が漏れる。こんなことは初めてだった。
『澪が好きだっていうのは本当。本気にしていいよ』
空白の時間が訪れる。澪はディスプレイの向こう側で次になんて打つべきか迷っている。
一花の浴びるシャワーの音が、その空白を塗りつぶす。
『あんまりそういうこと、言わないで。戻れなくなっちゃうから。おやすみなさい』
『また図書館前にいるよ』
あわてて送信すると、既読がついた。明日の約束ができたことに安心する。
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