第22話 5分だけでも会いたい

 翌日はまだ晴れていた。秋風が少し肌寒く、図書館前には昨日ほど人はいなかった。人波もまばらな中、軽い上着を着て図書館前に一人で座る。


「ごめんなさい!すごく待ちましたか?」

 1コマが終わって2コマが空きだったからまた手頃なミステリーを読んで座っていた。まだ早い時間なので、澪が来ることはないと思いながら。

 本から目を上げると、待ち人が目の前にちゃんといた。

「こんな早い時間によく来たね」

「それは、丞だって同じです。午前中の早い時間からこんなところに座ってたら寒いでしょう?」

「うん、ちょっと」

 澪は履いていたスカートにシワがつかないように手で押さえながら、僕の隣に腰を下ろした。

「2コマは?」

「休講でした」

「……時間割、交換するのはダメかな」

「丞がこんなに待たないで済むなら、そうしましょう? 後でスクショ送ります」

 すごく寒いと言うより、寒さがジンと身に染みるような陽気の中、コンクリートの階段の上に座っているのはわざわざ体を冷やすようなものだった。澪のストッキングを履いた足首が寒々しい。こんなに寒くても、手を繋いでやることも、肩を抱くこともできない。それを許される場所は限定されていた。

「寒くない? 場所、変えよう。いつものカフェでいい?」

「わたしは構わないですけど、丞はお昼に一花さんと約束があるんじゃないんですか? キャンパスから出て平気?」

「……まだ1時間あるし。人の目が気になるところに長く居たくないんだ。ゆっくり、二人きりで話をしたいんだけど、ダメかな?」

 澪の瞳にまつ毛が影を落とす。見間違いでなければ、少し表情が曇った。

「わたしたち、やっぱりこういうのダメじゃないかな? お互い気持ちがあるってわかったことに満足するだけじゃダメかな? 一花さんを傷つけることになったら、丞が傷つくと思う……」

「澪が欲しいんだけど。それ以外のことは今は考えない」

「……」

 こぼれ落ちそうになった言葉を、彼女は飲み込んだ。僕はそれを見逃さなかった。

「とりあえず、コーヒー飲みに行きましょうか? 丞、本当にここにいると風邪ひいちゃう。それに……噂になりますよ。誰が見てるかわからないし」

 僕は荷物を持って立ち上がり、彼女が荷物を手繰り寄せるのを待って手を伸ばした。彼女は僕の目を前髪の向こうからじっと見上げて、「ありがとう」と小さな声で言ってから僕に手を引かれて立ち上がると、スカートについた埃を叩いた。

「そういうのが噂になるって言ってるのにな」

「構わないんだよ」

「嘘つきだなんて、知らなかったな……」

 僕は彼女に笑顔で答えた。

 一花にどう言ったらいいのか、その正しい答えは持ち合わせていなかった。けど、繋いでしまったその手を離すことはもうできそうになかった。

 一花を思う気持ちと、澪を思う気持ちがなんでこんなに違うんだろうと自分でも不思議に思う。あの日、隙をついて繋いだ一花の手と、手を繋ぎたくても触れることのできない澪の手と、どちらの手も女の子の手に違いはなかった。目に見えるのに触れられないその手を捕まえたいと切望する気持ちをたぶん、恋と呼ぶんだろうな。離れないように、繋いでいたい。




「今夜も連絡しても大丈夫? まだ……一花さんに気づかれてない?」

「大丈夫だよ。手も繋げないんだ、言葉だけでも奪わないでほしいよ」

 困った顔をして澪は笑う。

 そばにいるだけでいい。歌の中でよく出てくるフレーズだけど、そんなものは嘘っぱちで本当の気持ちは痩せ我慢でしかなかった。

「『好きだ』って気持ちでいっぱいになっちゃうから、そんなこと言わないでほしい。一花さんのことを考えると黒い気持ちでいっぱいになっちゃう自分が嫌だし。わたしは後から来たんだからって我慢してる気持ちが、どこに行っちゃうのかわからなくなっちゃう」

「そのまま『好きだ』って思っててほしいんだ。わかったんだ、自分から好きになるって気持ち。今までなかったから気がつかなかった。初めて見た時から僕には澪が特別に見えてたよ」

「……学食?」

「そう、学食で澪を見たときから」

 キャンパスに戻るまでの道のり、カフェから正門前の横断歩道までの短い距離、僕たちは人波に紛れて手を繋いだ。うれしいはずなのに、なぜか別れの予感のようなものが二人の間に漂っていてどちらも口を開けずにいた。そのまま横断歩道を渡る勇気は持ち合わせていなかった。どちらからでもなく手は離された。




「2コマ、長引いたの?」

「ああ、遅れてごめん」

「いいんだけど、少し心細かったから。丞はいつも遅れないで来てくれるじゃない?」

 正門をくぐったところで、僕と澪は分かれた。「連絡するから」と彼女はさみしげに一言残した。

「じゃあ、待たされたからコーヒーおごって?」

「コーヒーじゃなくて甘いものが食べたいんじゃないの?」

「たまにはカフェもいいでしょ?」

 苦笑せずにはいられなかった。ついさっきまで僕はそこにいたから。まだ澪といた時の余韻が胸を占めているのに、いつもと同じ顔をしてそこに座っていられる自信がなかった。

「じゃあ、ごちそうさまでした。ほら、丞、行こう?」

 一花は強引に二人分のトレイを持って立ち上がり、結局小さい彼女の代わりに僕がトレイを持った。

 さっき来た道のりを折り返す。学食を出ると薄曇りで気温も上がらず、当たり前のように繋がれた、いつも温かい一花の手が冷えていた。僕の上着のポケットに彼女が繋いだ手を入れる。

「丞、温かいね」

 満足そうな目をして一花は微笑んだ。短い髪の襟元が寒そうで、次のクリスマスにはマフラーがいいかもしれないと無意識に考える。信号が、青に変わる。






 二人して窓際の席に座る。澪とは決して座らない席だ。なんだかんだ言っても、いつでも後ろめたさを感じているのは僕だった。かえって一花に偶然、全てを知られてしまったらいっそ楽かもしれないと思っているような不甲斐ない男だった。


「そう言えば、丞を待ってる間に澪ちゃんを見たの。田代くんと一緒だったから、仲直りしたのかなって思って。よかったね。やっぱり気持ちの行き違いだったんじゃない?」

「え?」

「あれ? 『お兄ちゃん』は聞いてないの? 澪ちゃんて大人しいけど、ああやって笑うとかわいいよね。恋ってすごいね」

 クリームの乗ったコーヒーを飲みながら、一花は残酷なことを告げた。

 2コマが終わって確かに正門で僕たちは分かれたけれど、その後すぐにばったり田代に会って歩いていたとはどうしても考えにくかった。一花と約束していた僕でさえ、約束の時間に遅れたのに……。

 どういうこと?

 たった一言、聞きたいことが聞けない。

 それ以前に、澪はまだ田代のものなのか知りたい。田代だって澪に「フラれた」と言っていたのに。

「丞? コーヒー苦かったんでしょ? 甘党だもんね、君」

 一花がいつものように僕をからかう。苦いのはコーヒーじゃなくて、自分の気持ちだった。真実がどうであれ、それを苦しく思うのは自分次第だということを僕はもう知っていた。






『今日はもう会えない?』

 お昼の後、ゆっくりコーヒーを飲んでから一花と別れて講義に向かう。席に着くと同時にスマホを開く。

『5コマまであるから、夕方遅くなっちゃいますよ? 一花さんと一緒に帰るんじゃないんですか? 明日の方がよくないかな?』

 そんなことは理性でわかっていた。できるだけ早く、澪の口から聞きたかった。何を? 田代とのことを……。

『5分だけでも』

 教授が入ってきて、一斉に教室のボリュームが下がる。ボソボソと今日も聞き取りにくい声で教授は喋り始めて、黒板によく知らない単語を書き連ねていく。

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