第21話 時間をかけて募らせたいもの

「……本気にしちゃいますよ?」

「本気にしたらまずいの?」

 澪は俯いて、繋がれたままの僕の手をじっと見ていた。彼女が何を考えているのか僕にはわからなかった。それはもどかしくもあったし、これから知ればいいことのような気がした。

「わたし、まだ、遼くんの彼女です。まだ、きっぱり別れたとは言い難いんだと思います」

「うん」

「松倉さんにも一花さんがいるし」

「うん……わかってる」

 わかってるんだ、と言いながら迷いながら澪の手を引いた。澪も迷っているようで足取りがおぼつかないまま、よろよろと僕の胸に飛び込んだ。心音が、並じゃなく高鳴っている。彼女の背中に当てられた僕の手が、自分でも信じられない。手のひらが、熱い。

「……松倉さんがどういうつもりなのか、わかんないです。強引な人だと思わなかった」

「ただこうしたかったから」

「……あの、もしイヤじゃなかったら、二人きりの時、下の名前で呼んでもいいですか?『丞』って」

「いいよ、澪……」

「わたし、きっと期待しちゃう。また、こうやって会えること、きっと待っちゃうと思う」

「構わないよ」

 背中に回した手に、ギュッと力を込める。僕と澪は、少なくとも体だけは密着した。




 実のあることは何も話さなかった。一緒にいることが奇跡のようで、息をするのも苦しかった。ただその間、手と手は、指と指は繋いだままで目のやり場に困るとそこに視線が行った。指先が熱かった。

 僕たちは繋がっていた。

「……わたしのことはいいですけど、一花さんが知ったら悲しみますよ」

「うん、わかってるよ」

「……わたしは本当にいいんです、一花さんがいても。丞さんが、わたしを少しは想ってくれてるってわかったから、それだけでいいんです」

 澪の真っ直ぐな髪に指を通す。その指は留まるかことなく、肩下まで滑らかに動く。二人の吐息が、同じタイミングでこぼれる。


 不意に講義を終えるベルが鳴る。どこかの知らない教授が来週の講義の話を大声でしている。教室から人がこれから出てくる気配がする。

止まっていた時間ときを押しとどめることができず、流される。

「出ようか?」

 こくり、と澪は頷いた。




 今度は手を繋いではいなかった。

 小野寺のありがたい助言を思い出す。あの時は澪が僕の手を握って歩いていた。今日は? 言い訳のしようもない、今日は僕が彼女の手を取って人気のない所へ連れて行ったんだ。




「あの、わたし、一花さんが来る前に帰りますね」

 僕たちはさっき会った図書館前の階段に二人で並んで座っていた。前の講義を終えて帰る人たちが足早に過ぎていく。

「……一花は今日は帰りが遅いんだ」

 彼女の顔がぴたりと前を向いて、髪が揺れる。僕は彼女の顔を真っ直ぐ見ることができずにいた。

「まだ一緒にいたいんだ」

「丞さん、確信犯」

 ふふ、と澪は微笑んだ。僕はあわてて訂正する。

「呼び捨てで構わないよ」

「呼び捨て……? 丞?」

「うん」

 澪は視線を上げて、まるで空模様を見ているような顔をしながら僕の名前を何度か口にした。そんなことが前にもあったような気がして、記憶を遡る。

「帰ったら、メッセージ送りますね。いつものように」

 ふんわりと微笑みながら彼女は僕を見た。言外に今日はこれ以上、一緒にいたりしないと告げていた。切なくなる。こんな気持ちになったのはいつだったのか、思い出せない。誰かに淡い恋心を寄せたのはいつだったのか……。

「……一緒にいるのはまずい? やっぱり」

「まずいですよ、まだわたしたちには恋人がいるし。……それに、時間をかけて募らせたらダメですか? いきなり気持ちに押し切られたら、今まで我慢してきたものが全部ダメになる気がして。丞はそういうの、ない?」

「そうだね、気持ちを大切にしたい。急かしてごめん。二人きりにもっとなりたかっただけなんだ」

「我慢してください、わたしも我慢するから。不用意に動いたらダメだと思うの……」

 じゃあ、と澪は瞳を伏せて立ち去ろうとした。僕はハッとなって、彼女を小さく呼び止めた。

「あのさ、もう田代とは……」

「できるだけ会わないから大丈夫ですよ。サークルも行かないし。別れ話はスマホで済むと思います。丞、意外と心配性。一花さんといる時にはいつも落ち着いているのに。嫉妬する方なんですか?」

 確かに僕は気が動転していた。

 僕の欲しいものは出会ってからたぶんずっと澪だった。その澪が手に入ったかと思うと、するりと手から逃れてしまう。誰にもやりたくなかった。






「疲れちゃった。実習、きつくて」

と言いながら、一花は僕にすぐに抱きついてきたりしない。彼女はまずバスタオルを持って、シャワーを浴び始めた。シャワーの飛沫の音が屋根を叩く雨音のように聞こえてくる。僕はベッドに寄りかかってそれを耳にしていた。

「丞? 何か疲れることあったの?」

「いや、別に」

 一花がその短い髪を拭きながら、部屋に戻ってきた。僕の手の中にはスマホがあった。

「今日は何してたの?」

「……澪に、図書館前でばったり会って、また相談事を聞いたよ」

「そうなんだ。大変だよね」

「うん」

 虚実入り交じった方がいいとはいうけれど、僕の心臓はそれに耐えられなくなりそうだった。

 一花の顔が真っ直ぐに見られない。

「……君がもし浮気なんてしたら、わたし、どうするのかなぁ? 想像もできない。だって今がしあわせだから。だから、本当の意味では澪ちゃんの気持ちをわかってあげることはできないんだ」

 髪が濡れたままの一花は、僕の真ん前に座り込んだ。そうして頭を預けてくる。タオルで髪を拭いてやる。シャンプーの清潔な香りがした。

 自分がどれだけ酷いことをしているのか、目を背けているわけにはいかなかった。




 今日は遅くなったから簡単にね、と言いながら、彼女は親子丼の用意をしていた。炊飯器のスイッチを入れ、少しの間、座ってテレビを見ている。僕は相変わらずスマホを気にしている。

 最近はサイレントに設定しっぱなしのスマホが青く点滅する……。

「丞、またサイレントにしたままだったの? 不便だから講義終わったらせめてバイブにしておけばいいのに。頻繁に通知確かめる人でもないでしょう?」

 僕がそっとスマホに手を伸ばしたのに気がついて、一花がそう言う。戻し忘れちゃうんだよ、と取ってつけたような言い訳をしてそれを手に取った。

『一花さん、戻りましたか? わたしはふらふら買い物してて遅くなっちゃって、こんな時間にすみません』

『大丈夫だよ。待ってた』

 一呼吸置いて、返事が届く。文面を組み立ててスマホをなぞる彼女の姿を想像する。

『待たれてるってうれしいことだって知らなかったな。もっといっぱい待たせたくなっちゃう』

『いつでも待つよ』

『待ってばかりいないで、時には攫ってください。女の子ってたぶん、そういうのに弱いと思う』

『今度はいつ会える?』

 愚問だった。

 今の状態でどうやって約束をするんだろう? 二人きりで会うことさえ難しいのに、どんな約束をすればいいんだろう? ……直接、部屋に来てもらう? それは実現できるとは思わなかった。

『また図書館前で偶然に。いつでも時間のある時には見に行きますから』

『雨の日は?』

『エントランスで。明日も会えると思っていいですか? 会いたいな、丞に』

 ご飯になるよ、とちょうどキリのいいところで一花から声がかかり、『じゃあ、また明日』と返事を返す。それまで無味乾燥だと思っていた文字だけのやり取りに、心が動かされているのを感じていた。

 会いたい。今すぐにでも。




 一度認めてしまった気持ちは二度と奥にしまうことができずに、月の光を浴びてどんどん大きく育って行った。僕の心はたった一晩で澪でいっぱいになり、彼女なしではいられないように思う。

 けど、現実では一花がいて、今日もそのくせ毛のやわらかい髪を無防備に乱しながら、僕の腕を枕にしてやさしい寝息を立てていた。

 一花が悪いわけじゃないんだ……。

 変わったのは自分で、一花みたいに真っ直ぐ前だけを見ていられる人間では僕はなかった。かと言ってよそ見をしているとは思わなかった。間違いなのかもしれないけれど、これはよそ見ではなくてあらかじめ引かれていたレールの上を走っているようなものだった。止まることを知らない……。

 このまま一花を泣かせないでいられるわけがないことは明瞭だった。もう、一花とはいられない。一花を失っても手に入れたいものを、見つけてしまった。

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