第12話 お互いに相手がいるから
「お帰り、丞」
半年ぶりに会う母は、会う度に少しずつ小さくか弱くなっている気がして、会わないでいた日々の親不孝を思い知る。
母は、お盆の棚を作る準備をしていた。
「手伝うよ」
と言うといつも通り準備よく僕に指示を出して、そうやって始めてみると思っていたより早く棚は出来上がった。
「麦茶、入れようか」
まだお盆前だったのでその日は兄もその上の兄も戻っていなくて、「母さんの息子」は僕ひとりだった。
すだれの下がった和室の窓際、クーラーの効いた室内でヒグラシの声を聞く。カーナカナカナ……とヒグラシの鳴く音が、昔のまま軽やかに寂しく響く夏の夕暮れに、母が料理をする油の音が耳に入る。
誰かにもらったのか、テーブルの上にはいっぱいのキュウリやピーマン、トマトなどの夏野菜が入った袋があった。
「丞は、おつき合いしてるお嬢さんがいるの?」
「あ、まぁ……」
面と向かって聞かれると、どんな顔をしていいのかわからなくなる。それでも隠し事は上手くできない性分なので素直に答えない訳にはいかない。子供の頃からいつもそんなんで、だからこそ母は僕をきつく叱ることがなかった。
「いけないことだって言いたいわけじゃないの。気が向いたら、遊びに連れていらっしゃいよ。丞の好きになった女の子を見てみたいから」
そこまで言っておいて、それ以上は何も言わなかった。母はテレビから目を離そうとせず、僕は風呂に入って部屋に引き上げた。
当たり前のようにスマホの着信があって、その小さく点滅する青い光にふっと笑みがこぼれる。画面を開かなくてもわかる、相手が誰なのか。しばらく、星のようなその点滅を見つめて、それから画面を見る。
『夜ご飯は何を食べた? うちは冷しゃぶでした。お兄ちゃんがまだ戻ってないからいつも通りな感じ』
『うちはなすの揚げ浸しだったよ。近所の人からどっさりナスをもらったんだって。帰る時に少し分けてもらおうか?』
送信して、スマホを枕元に投げる。布団の上でスマホは小さくバウンドする。
夜だというのにねっとりとまとわりつくような暑さに包まれて、気持ちよく眠れそうにない。
盆が明けるとすぐに、約束通り僕はまたアスファルトの照り返しが熱い都会に戻ってきた。いつもと同じ大きめのリュックを背負ってホームに立つ。改札を出たところで一花が大きく手を振った。
「暑いから涼しいところで待ってるように言ったのに」
「一秒でも速く会いたいって思ったから」
「……少し涼んでから帰ろう。どうせ帰っても冷房がついてるわけじゃないし。一花、熱中症になるよ」
「丞だってなるでしょう?」
「僕は別にいいんだよ」
相変わらず背の小さい彼女は、何をエネルギーにしているのか、ころころと表情を変えてよく喋った。
僕たちは近くのファミレスで甘いものを食べながらたらふく冷たい物を飲んだ。アブラゼミの声が鳴り響く外界にはもう出たくないと思ったけれど、いつまでもこもっているわけにもいかないので店を出る。リュックを肩にかけて、一花の荷物を持ってやる。
「買い物しないと何も食べるもの、ないんじゃない?」
「あるよ」
「ないよ」
「ナスとピーマンとキュウリ。トマトも入ってるかも。母さんが今度、箱で送るって言ってたけど、今日も少し持って帰ったんだよ」
都会育ちの一花にはピンと来なかったらしく、「え?」と言って驚いていた。
「買い物は帰ってからにしよう」と言うと、うん、と彼女も頷いて汗をかいたことも忘れて熱い手を繋いで家まで帰った。
帰ってシャワーを浴びると、まだ冷房が効かないうちにどちらからともなくキスをする。そうしない訳にはいかなくなって、足りなかった分を埋め合わせる。どちらかが少し欠けても、どちらも成り立たないようなふたりにいつしかなっていた。手を伸ばせば届く位置に彼女は今、いた。
「母さんが、一花を連れて来いって」
「え? なんて言ったらいい?」
「なんてって……。いいとか嫌だとかじゃないの」
膝を抱えて彼女は考え事をしているのかと思ったら、顔を覗くと微笑んでいた。
「だってそんなの、緊張しちゃうじゃない? 君のお母さんでしょう? わたしも失敗できないし」
「なんの失敗?」
僕はうつ伏せになって彼女の瞳を見つめていた。きらきら輝く瞳には、女の子らしい夢や憧れがまだまだ溢れんばかり詰まっているようだった。
「ここで失敗したら、お嫁さんになれなくなる……でしょ?」
彼女の魅力のすべてがそこにはあった。かわいい、という一言でしか表せない何かがあった。女の子はみんな、こんなんなんだろうか、と今さら困惑した。
「まだ、申し込んでないよ」
「申し込まれた時のためにだよ」
そっと体を起こして頬を撫でる。その肌のやわらかさに心が震える。短い髪が僕の指にかかって、やさしくくすぐった。
一花は僕を受け入れるとそっと息を吐いて、僕の髪に指を埋めた。彼女に受け入れてもらえることで、自分は特別に許されてこの場所にいられるのだとそう思った。
夏休みと言えども何もかもが自由という訳にはいかないので、図書館に本を返しに行くついでにレポートの資料を借りに行く。
自転車で行けば体を覆う熱気も少しはましになるだろうと思ったけれど、少し早く着いただけで暑さはあまり変わらなかった。風に吹かれるほどの距離もなければ、住宅街のごみごみした通りを抜けていけば、風の通り道にも当たらなかった。
図書館の入口で自転車にチェーンをかけて中に入ると、エントランスで帰り際の澪に出会う。会わなかった時間が長かったので、お互い、初対面のような空気になる。
「……お久しぶりです。大学は夏休み、長いんですね。前に松倉さんに会ってからずいぶん経った気がします」
「ずいぶん経ったんじゃないかな? 気がつけば真夏だし」
澪は長いストレートの髪を、暑さ避けか首の後ろでひとつに結んでいた。ほっそりとしたうなじが今日は見て取れた。
「元気でしたか?」
「うん、少し実家に帰ってて。実家の方がここより田舎な分、少しだけ涼しい気がするんだよ」
そうなんだ、田舎なんですか、とたわいのないことを話す。そこで話していても会話がループするだけで一向に進みそうにないので、提案をする。
「よかったら暑いからアイスでも食べようか? 僕は本を返却して、資料だけ借りてくるから。いくら何でも暑いでしょ?」
「あ、いいんです。少しお話できてうれしかったし」
「カバン見てて。すぐに済むよ」
押し止める澪の言葉を聞かず、カードをかざして館内に入る。控えめな空調と人の少ない静けさが外の暑さを忘れさせる。目的の資料はすぐに見つかって、エントランスに戻る。僕が戻ると下を向いていた澪の顔がこっちを向いて、ぱっと弾けた。
「理由もなく座っていることに緊張しちゃって」
「図書館で緊張しないでしょう?」
「しますよ、ひとりで置いていくから。誰かを待ってるって変に緊張するじゃないですか?」
彼女の腕がそっと僕の方に伸びたような気がしたけれどそれは気のせいで、引いている自転車のスポークが軽やかな金属音をたてていた。
「松倉さんは、今日は一花さんに会わないんですか?」
「うん、たまには一花も帰るんだよ」
「たまには、ですか……。なんか当てられちゃうなぁ」
まずいことを言ったかな、と恥ずかしくなる。一花は僕の一花だけど、僕のものではない。それを言いたかった訳だけれど。
「田代は?」
「帰省してます。休みの間は帰ってこないんじゃないかな……? って、たまには会いますけど」
「たまには?」
「そう、たまには」
学校近くのカフェに寄って、冷たい物を買う。クラッシュした氷が喉に気持ちいい。
澪は表情を曇らせたまま、少しずつ減る飲み物と氷をかき混ぜていた。心、ここに在らずと言ったふうに。
「強引に誘って悪かったよ。ごめん」
「うれしかったです。こんなふうに松倉さんとふたりになるなんて、この先ずっと無いだろうし」
「お互い相手がいるんだしね」
「そうですよね……」
言わないでいようか、ずっと迷っていたことを口にするのはきっと間違いなんだ。僕はその時、そう思わなかった。だから何も考えずにそれを口にしてしまった。
「もしかして田代と上手くいかないの? 一緒にいても楽しくないの? ……見当違いだったらごめん」
彼女は飲み物を手に持ったまま、二度、三度とゆっくり瞬きをした。そうして飲み物を置くと、カップからするりと結露した水分が流れてペーパーナプキンを濡らした。彼女は迷っている風だった。
「松倉さんから見て、そう思いますか? 正直、わからないんです。でも、……あの人じゃない気がして」
「何が?」
「わたしの相手。おかしいですか? ……おかしいですよね、そんなことを疑うなんて。松倉さんと一花さんは長くつき合ってるからそんなふうになったことはないですよね、つまらないことを言ってごめんなさい。忘れてください」
「確かに僕と一花はそんなふうになったことはないけど、わかるよ。自分にとって本当の相手が誰なのか、わからなくなる時はあると思う。田代がそうでないと思うなら、田代には悪いけどそうじゃないんだよ、きっと」
澪の瞳が揺れるのを見た。
瞳は涙で潤んでいるのかもしれなかった。
「内緒にしてくださいね。松倉さんにこんなこと話すなんて……我ながらどうかしてると思います」
背中をさすってあげようかと気持ち伸ばしかけた手を引っ込めた。それはまだ僕の役目じゃないし、第一に僕には他にそうしてあげるべき人がいるからだ。僕には澪に何かしてあげる資格がなかった。冷たい氷が体の内側から熱さを吸い取って行った。
「まだ学校に来るの?」
「はい、何度かは来ようかと思ってます」
「そっか……」
会話は結びつくところまで行き着かず、その途中でいつも途切れてしまった。どこにたどり着くわけでもなく、ぽつりぽつりと話しているうちに、駅に着く。
「松倉さん」
「どうしたの?」
澪は今日、何度目かの仕草を僕に見せた。きつく唇をかんで、俯いている。長めの前髪がその内側にある瞳を隠して、彼女の表情が上手く読み取れない。
「たまに。たまにでいいんですけど、話を聞いてもらえますか? 今日みたいに……」
「何だ、そんなこと? 構わないよ、前にもそう言わなかったっけ? でも僕なんかでいいの? そんなに参考にできる意見、出せるほど経験豊富じゃないけど」
「経験豊富とか、そういうのは問題じゃなくて。松倉さんに聞いてもらうと安心するっていうか。……連絡先を聞いたら迷惑ですか?」
そんなに思いつめた目をされると、余計に意識してしまって、用意していた台詞がスルリと口から出てこなくなる。もっとスムーズに聞いてくれれば、こっちも、いいよって軽く言えるのに。
以前、小野寺と連絡先を交換したと一花から聞いた時のことを思い出す。あの時、自分は……。でもその後、何も無かったから。
結局、駅の改札近くで連絡先を交換して、炎天下、自転車に乗った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます