第11話 「愛してる」と「愛おしい」

 食事が終わると澪は頭を下げて、田代は手を振ってふたりでどこかに去っていった。テーブルに残された僕たちは何となく疲れていた。人に疲れていた。

「一花、ごめん。居心地悪くなかった?」

「大丈夫だよ。君の友だちなんだから、わたしの友だちのようなものだよ」

 困った顔をして笑う一花を見ていると、澪の言った言葉を思い出す。田代の欲しい彼女は、一花みたいな……?

「田代と話した?」

「話したよ、どうして? 君たち、一緒にお茶を取りに行っちゃったから仕方なく話してたけど」

「あいつ、面白いヤツだった?」

「面白さで言ったら、小野寺くんと笹塚くんの方がよっぽど楽しいっていうか。あ、これヒミツにしておいてね」

 つまらない嫉妬だった。

 どうにも田代と澪はあまり上手く行ってないように見えたし、田代は一花が気になっているようにも思えた。だからと言って、一花の気持ちが揺れることがないのは本当はわかっていた。

「そんな顔しないで。甘やかしてあげたいところだけど、テスト終わるまではそういうのなしって約束しちゃったから。もう少しがんばるから、待ってて」

 一花の微笑みはいつだって僕をやさしく受け止めてくれる。彼女は向かいに座る僕の方にうんと手を伸ばして、僕の頬に手を当てた。






 テストが終わるまでは今度は自分の方が気持ちが落ち着かなかった。この前の時は一花が集中できなくて僕はそれを見ている感じだったけど、今回は自分がまるきりダメだった。心が揺さぶられて思うように物事が進まなかった。気持ちをしっかり落ち着けようとするのには大変な努力が必要だった。

 そんな時は一花の声をそっと聞いた。

 学校で会えるといっても、一花の学部のMキャンパスは僕の学部のある本キャンパスから1時間ほどのところにあって、2年生になると一花がそっちに行ってしまう日が多くなった。このまま、3年生、4年生になるともっとそんな日が増えるのだと思うと気持ちは重くなり、そのことはあまり考えないことにしていた。

 なので女々しいと思いつつも、テスト期間、会えない日は一花に電話した。彼女の声を聞くだけで、夜はやさしく自分を包んでくれるようなそんな気持ちになった。

「大丈夫、もうすぐ終わるよ」

と彼女は僕にそっと告げた。






 そんな日、ペットボトルの飲み物を買いに生協に向かって歩いていると、図書館前の広場で澪に会った。友だちと一緒だった。

 澪は僕の顔を見ると「あ」と言って、友だちは「先に行ってるね」と去ってしまった。何となく、間が悪かった。

「ごめん、友だちに変な誤解されないといいんだけど」

「大丈夫ですよ。友だちと言っても、本当はそれほどまだ仲良くはないんです。遼くんにも会ってもらってないから、松倉さん、彼氏だって勘違いされちゃうかもしれませんね」

 笑えないジョークを言って、彼女は顔の前にかかった髪を一筋、耳にかけた。さっと顔を覆っていた暗い靄のようなものが取り払われて、本当の彼女を初めて見たような気になる。新鮮な感動に襲われていると、澪に座らないかと誘われた。

「気持ちのいい日、ですね」

「ちょっと暑いかな。もう夏だしね」

 半袖の内側が少し見え隠れして、その白い肌を覗き見る。あまり日焼けには向いていない肌色だった。

「わたし、夏って好きですよ。暑いけど、気持ちはサッパリするというか、喝が入るというか」

 思わず笑わされる。

 澪の話すことはちょっとだけ僕の世界とはズレていて、そのズレ具合いが彼女といることを楽しくさせる。

「喝ね……」

 爽やかな風が通り過ぎて、ふたりでしばらくそうやって、何を話すでもなく座って、人の流れを眺めていた。






 ようやく長かったテスト期間が終わって、一花が重い荷物を持って帰ってきた。僕はうれしくて、部屋の中央で一花を座らせることもないまま、彼女を強く抱きしめた。

「お帰り」

「ただいま。どうしたの、突然?」

 一花はそっと右手に持っていたカバンを床に落として、空いた方の手で僕の背中をさすった。そうして、大きなため息をひとつつくと、僕の胸の中にすっぽり入って小さな頭を強く押しつけた。

「うれしい。……テスト、がんばってよかった」

「うん、そうだね」

「丞、電話ばかりかけてくるんだもん。途中、何度も会いたくなっちゃったじゃない」

「ごめん」

「嘘、電話がなくても会いたかった」

 背中からそろそろと彼女の手が上がって、彼女のそれよりはずいぶん高いところにあるはずの僕の頭に手のひらが当てられる。僕の顔は彼女の方に引き寄せられて、半分、自発的に口づけをした。お預けを長いこと食らっていた犬のように、僕は必要な分、しっかり彼女を欲した。それが彼女にも伝わって、熱い吐息が漏れる。一花は僕の一花だった。




「わたしが彼女で損をしたと思うことってない?」

「何それ、例えば?」

「例えば……背が低いとか、胸が小さいとか、人に紹介したいと思えないとか……」

 言いながら彼女はどんどん下を向いてしまって、地面の下まで潜って行きそうな勢いだった。布団の中の僕の好きなくせっ毛に指を通す。そうやって髪を撫でているといつでも妙に安心した。

「一花はいつでも自慢の彼女だけど? それだけじゃダメなの?」

「まだ、つき合い始めた頃と同じように想ってくれてる?」

「それはないな。あの頃は今に比べると全然、一花のことをよくわかってなくて。今の僕の方がずっと一花をよく知ってて、愛してると思うけど」

「そんな恥ずかしいこと、言わないで……」

 僕は布団の中から無理やり一花を引き上げて、彼女の頬にキスをした。彼女からはいつも通り石鹸のいい匂いがして、それもまた僕を安心させた。

「一花、僕を必要としてくれてる?」

「そんなの、君がいなかったら……考えたくないな」

「考えて」

 意地悪を言って、彼女を少し不安にさせる。足場が安定しなくなった彼女が僕にしがみつくのを待つ。彼女の腕は案の定、僕の腰に離れないようにぎゅっと掴まった。そうして僕は彼女を許す。やさしいキスをする。

「……丞のいない世界なら、いらないの」

 聞こえるか聞こえないかというすごく小さな声で一花は囁くと、子供のように寝息をたてた。僕の腕の中で丸くなって。






 テストが終われば夏休みになって、またすぐ離れ離れになった。盆暮れ正月くらいは家に帰るべきだというのが、僕らのスタンダードラインだった。

 僕が実家に帰省する日、彼女も自分の荷物を持って反対側のホームに並んだ。一花はいつも通り、「帰りたくない」と言って僕を困らせ、僕はいつも通り、「すぐに戻るよ」と甘い言葉を与えた。

 そうこうしていると、幾度かどちらかのホームに電車は入れ違いにやって来て、最後はふたりを直線的に引き離した。

 電車の中は相変わらず快適な温度だったけれど、僕の心は重く沈んでいた。

 帰省するのにこんなに気持ちが落ち込むことはなかった。それは一花のもので、僕のものではなかった。

 僕は前に比べて一花に強く依存していた。それは「愛している」ということなのかもしれなかったし、そうでないとしたらまだわからない何かが原因なんだと思った。まだわからない何かのことは、わからないまま置いておくことにして、それよりは「愛する」ということを考えた。愛おしい、と思う気持ちが愛なのか、実のところ、よくはわかっていなかった。

 僕にわかっていたのは、彼女と同じように僕にも、彼女と離れ難い気持ちがあるということだった。


 一花のいない夏は、太陽の輝きを失くした空のようだった。


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