第10話 「つき合い始め」の頃
返してもらったタオル、もう使っちゃったの? と、一花は言った。僕は適当に返事をして、そのタオルを洗濯機に入れた。
「他人に洗ってもらったタオルって気持ち悪くない? 誰の場合でも。わたしなら、必ず洗濯し直してから使うな」
潔癖な一花らしいな、と思って笑みがこぼれる。その笑みが合図のように、一花が座っている僕の方にすり寄ってくる。
「君、雨の匂いがする」
「雨の匂い?」
「うん、雨が降り始めた時の匂い……プールの匂いとは別なんだけど、ただの水の匂いとは別なの」
帰ってきて先にシャワーを浴びた彼女は、まだ汚れたままの僕に触れてくる。やさしい指が、体に触る。五感が一花でいっぱいになる。
「シャワー浴びてくるよ」
頭から温水をかぶった。
去年の今頃は何をしていたのかな、ととりとめのないことを考える。何をどう考えても行き着く先は同じで、「一花」に尽きた。一花とつき合い始めてからこっち、ほとんどのことに一花が絡み、ウエイトはいつでも一花に置かれていた。きっとこれから先もそうなるんだろう、と考える。
「晴れましたね」
「やぁ」
学部脇のベンチで考え事をぼんやりしていると、澪がやって来た。この間の雨の日と同じタイミングだから、また田代を待っているんだろう。僕は特にすることもなく、空きコマの間、日向で日差しを浴びていた。
「松倉さんの彼女さん、かわいいですね」
「ああ、一花のこと? よく言われる」
「即答ですか? うらやましいな」
彼女は口元に手をやってくすくす笑った。
「そういうことではなくて。彼女が僕とは別のところで褒められているんだよ」
澪は何かを言いたげな顔をして、瞳を伏せた。よく見ていると、意外と表情が豊かだった。
「そんな彼女がいる松倉さんも、すごいってことですよ」
「そんなのないでしょ」
「わかんないかなぁ。松倉さんはすごいって話です」
彼女のことで大袈裟な、と苦笑いする。そんな僕を見て、ちゃんと話を聞いてくれていないと言わんばかりに澪は頬をふくらませた。
「わたし、実は人見知りで……。遼くんのお友だちでこんなふうに話せるの、松倉さんだけなんですよ。ほら、すごいでしょう?」
「人見知りなの?」
「……はい、だからあの雨の日もきちんと受け答えできなくてすみませんでした」
「そんなこと気にしてないよ」
気ニシテナイヨ、という言葉が不思議と体の奥でリフレインする。その言葉の紡ぐリズムが僕の中で軽く心地よい音をたてる。
そもそも田代という男の友だちが誰なのか、自分にはよくわからなかった。この間、親しくなったばかりの自分が「友だち」枠に入るのなら、他の友だちは誰なんだろう?
「田代とはどこで?」
「ああ、サークルの勧誘で。よくわからないけど、大学に入ったらテニスサークルに入るものかと思ってたんですけど、違うんですね?」
「……」
「遊んでる人ばっかり。その中でも遼くんはチャラチャラしてなくて、つき合わないかって真面目な顔で誘われて、そういう流れで」
「わりと流されやすいんだね……あ、なんかごめん」
「いいんです。本当のことです。自分のこと、自分で決めるの苦手だし、人に決めてもらった方が楽なんです」
叱られた子供のように彼女は頭を垂れた。言ってはいけないことを言葉にした後悔は役に立たない。後ろからそっとその頭を撫でてあげたかったけれど、さすがに他人の彼女を抱き寄せるわけにはいかなかった。微かな風が、僕たちの間に流れて通り過ぎて行った。
「流れでつき合っちゃうって、そういうものかな?」
怪訝そうな顔をして僕の言葉に一花は振り返った。彼女は台所で、肉じゃがを煮ていた。じゃがいもの甘い香りが部屋の中いっぱいに広がった。
「流れ、ね……。よくわかんないな。だってわたしと君との間だって流れはあったと思うし」
「あった?」
「なければ……あの、告白とか絶対できなかったから」
コンロの火を弱めて、一花は僕の前に座る。赤い顔をして距離を詰めて、一言ひとこと、大切なことを言う時のように僕にそれを尋ねた。
「あの、君はあの時、わたしのことを好きだった?」
今まで聞かれると思っていなかったことを不意に目の前に出されて、つい戸惑った。戸惑いが一花の心に映るのを恐れて、できるだけ早く何かを言わなければと気の利いた台詞を探す。一花の目は、最近見たことがないくらい、何故か真剣だった。
「好きじゃなければつき合わないよ。大体あの時、先に手を繋いだのは」
「ありがとう。君だったよね? はっきり言葉にして欲しい時があるの」
「バカだな」
細い彼女の体を預かる。何もかもが小さすぎて、壊れそうで怖い。彼女はいつかバラバラになるんじゃないかと怖くなる。
そしてその反動でぎゅっと固く抱きしめる。
「丞、痛いよ」
笑い混じりの声が、僕の耳元を通り過ぎる。
「痛いよ?」
彼女の手がそっと伸びて、僕の両頬を包み込むと、やさしいキスをくれる。僕は小さい男の子になって、彼女のキスを洗礼のように受ける。清らかな唇は外の騒がしい雑多な物事から僕を守って、包み隠してくれる。
僕には一花がいつだって必要だ。
夏休み前にはまたテスト期間がやって来て、僕たちはあまり密に会わなくなった。その分、昼食はできるだけ一緒に取ったり、図書館で勉強をしたりした。
その日も僕と一花は一緒にランチを取っていた。
「隣、いい?」
「どうぞ」
田代だった。澪を連れた田代が隣の席に座った。澪は一花の隣に座った。知らないところで彼女との距離を縮めた、一花に対するなんとも言えない後ろめたさのようなものが、僕を無口にさせた。
「初めまして。教育学部1年の片桐と言います。松倉さんの彼女さんですよね? よろしくお願いします」
すらすらと自己紹介をする彼女に一花は面食らって、声が上手く出ないようだった。そもそも一花もあまり「初対面」というものに慣れていない。
澪の対人スキルは、本人が言っていたより相当上だった。
「あ、田代さんの、ですよね。片桐さん……丞が『かわいい』って言ってましたよ」
変に場が緊張する一言を一花は落として、一瞬、テーブルがしんとなる。そこまで来て、一花は自分の言ったことに思い至ったらしく、あわてて喋り始めた。
「えーと、変な意味じゃなくて……ねぇ、丞」
「田代の彼女はかわいいって話をして」
いきなりこっちに振るなよ、と思いながら適当なことを並べる。間違いではないし、かと言って本当の意味では正しくない。
「一花さんの方こそずっとかわいいですよ」
するり、と会話に田代が入り込んだ。
「え? 全然そんなことないです」
「みんな、松倉に一花さんみたいな彼女がいることをうらやましがっていましたよ」
またまたぁ、と一花は隣で謙遜した。澪のことをその場で「大人しくて地味目」と表現したこの男がよくわからなくて、澪に視線をやる。澪は自分のトレイを、何の感慨もなく見つめているようだった。
「お茶、持ってくるよ」
「じゃあ、わたしが」
その場から逃げ出すように何となく流れで、給湯器に澪とふたりで向かった。
「松倉さん、狡い。わたしが人見知りだって知ってて、あの場に置いていこうとするなんて」
「自己紹介、上手くできてたよ。それに、田代といる方が気安いんじゃない?」
「……そう思います?」
「違うの?」
「まだつき合い始めたばかりだから」
そう言えばそんなことを、あの海辺の宿泊所で田代も言っていたような気がした。自分のことを思い返すと、一花とつき合い始めてからは楽しいことと刺激的なことの繰り返しで、「つき合い始め」なんて言葉はすぐに使わなくなっていた。一花とつき合い始めてからの生活は、毎日が充実していた。
「遼くんはやさしくないわけじゃないんですけど、まだ壁を感じるというか。つき合い始めたばかりだからかもしれませんけど。あ、松倉さんにこんな話しても迷惑なだけですよね?」
「田代は宿泊所で君のこと、『彼女がいる』って堂々と言ってたよ。みんなの前で」
澪は何かを考えるような顔をして、一瞬、瞳を伏せた。瞳を前髪が覆う。
「遼くんの欲しい彼女は、わたしみたいなのじゃないんじゃないかな? もっと、一花さんみたいにかわいくて明るい……」
そこまで言うと彼女は踵を返して、僕たちのテーブルに戻って行った。僕はひとりその場に取り残された。
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