第9話 傘

 実習から帰ると一花はまるで飼い主の足元で甘える子犬のように、僕にまとわりついた。そして、実習の話を詳しく聞きたがった。

「フナムシ、は嫌だな」

「僕だって嫌だよ。都合よく僕のところには入っていなかったけどね。『当たり』だったのは笹塚だったよ」

 嫌な顔を作りながら、一花は口元を押さえて笑った。ここに帰ってきた、という思いが僕を安心させる。それで、と促されて続きを話す。

「え? 小野寺くんに彼女ができたの?」

「うん。相田さんって、おしとやかな感じの子だよ」

「え? 小野寺くんにおしとやかな感じの女の子って、ちょっと意外かも」

 それで、とまた促される。僕はそこから話が「恋バナ」になって、一花の話をいろいろ聞かれたんだと言った。一花は耳まで赤くなって、何かに耐えていた。

「誰かが、一花をかわいいって言ってたよ」

 やだ、と彼女は顔を隠した。

「そういう話、外であんまりしないで。何、喋ってきたの?」

「しないでって言われても向こうから言ってきたらどうしようもないだろ」

「だから、適当に流して」

 照れた彼女の態度はつっけんどんだった。恥ずかしい時の一花は本当にツンだ。

 話の途中でふと田代のことを思い出したけれど、それは僕の中では特に話さなくていいことにカウントされた。不思議な男のことを少しだけ考えたけど、そこに意味は無いように思えた。






 ある日、僕たちはいつものように学食に行くと、まず席取りをしてから食料の調達に向かった。小野寺の彼女になった相田さんも僕たちの一員となって、しばしば一緒に行動した。一花と相田さんは知らないうちにどんどん仲良くなり、今ではふたりは長いこと親友だったかのように見えた。

 女子ふたりが話しながら食事を決めている時、目の端に見たことがない女の子を捉えた。その女の子は肩下までのストレートの髪をして、俯いた顔は控えめだったけれど何故か僕は目を離せなかった。

 彼女を良く知ろうとじっと見つめた。あまりに強く見つめたせいか向こうも僕に気がついて、こちらをじっと見た。お互いに知らない何かをやり取りしているような、そんな気になった。

「松倉」

 小野寺が僕を呼んで、呼ばれた僕は意識をこちら側に戻した。まだ見られている感覚が続いていて、もう一度振り返った。

 ……彼女の隣にいたのは田代だった。田代の言っていた「地味で大人しい」女の子が彼女だということに気がつく。田代は向こう側から笑って僕たちに手を振っていた。僕も軽く振り返した。

「あれ、田代の彼女?」

 聞くと小野寺が怪訝そうな顔をして振り返った。

「ああ、あれ? 髪の長い子なら、田代の彼女だよ。仲良くしやがって、やってらんねーな」

「そうなんだ。あの子、かわいいな」

 小野寺は僕に「何言ってんだよ」と言って、目の前で手のひらをひらひら振った。

「おーい、大丈夫か? あの子は田代のお手つきだぞ。そもそもお前には一花ちゃんがいるじゃん。あの子より一花ちゃんの方がずっとかわいいとオレは思うけど」

「ああ、うん。そう、田代の彼女だし」

「そうそう。冷静になった?」

「いや、この前ネットかなんかで見たアイドルに似た子がいたような気がしたんだよ」

 おいおい、修羅場は勘弁だよ、と小野寺たちが笑う声が遠くから聞こえてくる。

 不思議な感覚に、僕は囚われた。






 次に田代の彼女に会った時、その日は朝の晴天から打って変わった急な雨のせいで、傘のない人はみんな濡れていた。僕は僕の優秀なガールフレンドのお陰で、きちんとした傘を晴れた空の下、持たされていた。

 でもどうやら彼女は残念なことに傘を持たずに登校したようだった。長い髪はしっとりと濡れ、服も何もかも雨に打たれていた。彼女はハンカチを手に、どこから拭いたものか考えあぐねているようだった。

「あの」

 声をかけると彼女は一瞬、ビクッとしてから恐る恐るこちらを振り向いた。

「田代のこと、待ってる?」

「……はい」

「余計なお世話かもしれないけど、タオル、洗ってあるから使って」

 そのタオルも一花が、もし濡れたらと言って持たせたものだった。丁寧にたたまれた、清潔なタオルだった。

「すみません、気をつかわせちゃって。……こんなに降ると思ってなくて」

「いいんだ、田代は友だちだし。それから傘も使って。僕は友だちに入れてもらえるから」

 小野寺たちに頼んで、生協まで入れていってもらえれば傘を買えると思っていた。

「そこまでしてもらうのは」

「いいんだ、本当に。大丈夫だから」

 僕はそこまで言うと傘を半ば強引に渡して、自分のロッカーに向かって歩き始めた。学部棟の廊下はいつも通り薄暗かった。

「あの! 名前、教えてください。リョウくんに言って借りたもの、返してもらうので」

 遼くんて誰だろう、と一瞬思ったけれど、田代のことだとわかった。僕はくるっと踵を返すと、彼女のところに戻って名前を教えた。

「松倉、でわかると思う」

 じゃあ、と言って今度こそロッカーに向かう。彼女はそこを動かず、まだ田代を待っているようだった。




「何で君が傘を買ってくるかな?」

「いいじゃない、傘一本くらい」

「だってせっかく持たせたのに、台無し。そんなに濡れちゃって」

 僕は結局、田代と同じ授業に出ていた小野寺を捕まえて傘に入れてもらったが、小野寺は例に漏れず小さいビニール傘しか持っていなかったので、結果、ふたりとも濡れた。肩の辺りが最悪だった。

 一花がブツブツ言いながら、一花の持っていたタオルで僕の肩を拭いていると、向こうから田代が歩いてきた。混んでいる学食の中を人を縫うようにしてこちらにやって来ると声をかけてきた。

「松倉」

 田代の手には見慣れた僕の傘があった。僕は田代の顔を見た。

「傘、ありがとう。俺が持ってるから大丈夫なんだ。そんなに濡れちゃって申し訳ない。タオルはミオが洗ってから返すって言ってるから」

「次の授業のときでも良かったのに。わざわざありがとう」

「いや、こっちこそ。澪はうっかりしたところがあるからさ。迷惑かけたね、ごめん」

 田代の戻っていく方向を見ていると、延長線上に「澪」さんがいた。1つ下だという彼女は焦った顔をして田代を迎えた。そうして視線をこちらに移すと、ぺこり、と小さくお辞儀をした。彼女の髪が斜めに揺れた。

「田代くん?」

「ああ、そう」

「この間、小野寺くんが話してくれた……丞がかわいいって言ってた女の子、あの子なんだ」

「だから違うって」

 そういうつもりで言った訳じゃなくて……じゃあどういうつもりなんだろう? 他人の彼女を軽々しく「かわいい」と言うなんて、まったくバカだった。いろんな誤解を招くだけだ。

「かわいい子だったよ。丞の目は確かだよ」

 澪さんは、遠目に見るとスレンダーで、一花とは違って背がちょっと高かった。上目遣いになると、前髪がまつ毛に触れる。少し長い前髪の下にはしっとり濡れた濃い茶色の瞳が隠れていた。


 とにかくどちらにしても、僕は「澪」を知ることになった。






「松倉さん」

 キャンパスを歩いている時、急に後ろから呼び止められる。その日はまた雨の日で、僕はこの前買ったビニール傘をさしていた。あの日から置き傘になったのだ。

「松倉さん、この間はタオル、ありがとうございました」

 少し小走りになってやって来た彼女は、息を切らせていた。

「またこんな雨の日に渡すのも何なんですけど、返さないより返した方がいいかなって」

「ああ、気にしないで、本当に」

「じゃあ」

 彼女は自分が持っていたビニールの包みからやわらかいタオルを取り出すと、僕の肩や肘についた雨を拭き取ろうとした。僕は突然のことで唖然として何も言えなかった。

「あ、自分でできるよ」

「濡れちゃってるなって気になってて」

「ありがとう」

 彼女から受け取ったタオルは、うちのタオルとは違う匂いがした。よく知った一花とは違う匂いで、何かが複雑だった。

片桐澪カタギリミオです、お世話になったのに名前も名乗らなくて」

「僕は」

「松倉さん」

「そう、松倉丞っていうんだ」

 マツクラタスク……と彼女は何かの呪文でも唱えるように何度か口の中で繰り返した。僕の名前は彼女の口の中を、その度に行ったり来たりした。自分の名前をそんなに恥ずかしく思ったのは、後にも先にもその時一度きりだった。




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