第8話 新しい友だち

 次の1年を迎えるための春休み、僕たちは会えなかった時間を埋めるようにの毎日を送った。

 朝、目覚めてトーストを2枚焼いて、バターを塗る。一花はその間にスクランブルエッグとベーコンを焼いた。そんなふうに毎日は始まって、同じ布団に入ると1日は終わった。

 約束をしたわけではないけれど、どちらも実家には戻らなかった。僕たちの時間は二人の間で凝縮され、甘く発酵した。会えなかった日々がそれを後押しした。




「もうすぐ、知り合って1年だね?」

 洗濯物をたたみながら、風呂掃除から戻った僕に一花が話しかける。彼女が言いたいことを計り兼ねる。

「まだ1年? もう1年?」

 彼女はたたんでいたTシャツを膝の上に置いて、僕の目を下から覗き込んだ。

「もう1年、かな。早いな、と思う。好きになると時間の流れが早くなるのかな」

「そうか。『もう1年』か。確かに一花を初めて見た時からもう1年が経ったなんて不思議な感じだな」

 くすり、と彼女は笑って言った。

「変わった女だと思ったでしょう?」

「いや、別に。ペンギンとヤマネに熱い愛情を注いでるんだなとは思ったけど」

「もう! お世辞でも、かわいいと思った、とかないの?」

「かわいいと思ったよ。あの子、かわいいなぁって」

 嘘ばっかり、と一花は口を尖らせた。怒った時の一花は、笑った時と同じくらいチャーミングだった。

「君は、そんなふうにわたしを見てなかったよ。わたしを他の女の子と分けて見ている風ではなかったもの」

「じゃあなんで今、つき合ってるの?」

「なんでかな? 『変わった』女が実は好きだったとか?」

「ひどいな、それ」

 一花は自分の座っていた隣に僕が座るように促すと、洗濯物は投げて僕の膝に頭をのせた。

「なんでもいいや。君がわたしを好きでいてくれればそれでいいの。……わたしは最初から君が気になってたんだよ、本当は」






 花は次々と綻んで、僕たちは晴れて2年生に進級した。危うかった後期の単位を忘れずに、今期もお互いの勉強時間をきちんと確保しようと約束して。僕たちは、先輩になった。


自保研じほけん、全然かわいい子来ないんだよ」

「まずは名前が悪くないか? 『自然保護研究会』って、漢字だけだとお堅いんじゃない?」

「仕方ないだろ。変えるって言ったら歴代の先輩が揃って出てくる」

「何、その歴代のって」

 小野寺は嫌な顔をした。あたかも話したくないことを言ってしまったという顔だった。

「丞は会ったことないんだっけ? 大学にはいるんだよ、歴代の先輩ってやつが。たまに現れて差し入れをくれるのはいい人、そうじゃない人は『そもそも自保研とは何か』って話から始まって、その後は今の惨状を見かねて説教が何時間も続くんだよ。たまんないよ。その場に居合わせた自分が不幸に思える」

 その時、それまで神妙な顔をして頷きながら話を聞いていた一花が笑いを堪えきれず声に出して笑った。小野寺も一花の笑いに話がノってくる。

「だからさ、『自保研』ってお堅い名前、変えらんないんだよなー。オレだって名前が変われば入部する子も増えると思うんだけどさ。つーか、一花ちゃんみたいな子が入ってくれたのが奇跡。来ねーかな、そういう子」

「わたしみたいな子がいっぱい入ったら、ペンギンたちのために海にたくさん保冷剤投げちゃうから、やめた方がいいよ」

「保冷剤、全然OK。いつでもいいからさ、本当、遊びに来てよ」

 待ってるからね、と言いながら小野寺はサークル会館に帰って行った。




「わたしたちが知り合ったきっかけは『自保研』なのに、小野寺くんには何だか申し訳ないね」

「あいつ、次期、会長候補なんだってさ」

「なんだかんだ、一生懸命だもんね」

 風に散る桜の花びらを浴びながら、一花と手を繋いでキャンパスを散歩する。ああ、つき合い始めた時もこんなんだったかもしれないと思い出す。思い出なんて都合のいいもので、その時その時に忘れていたことをふっと思い出すものだ。

 一花が繋いだ手を前後に大きく振って、体が揺れる。下を向いたまま彼女は話を続けた。

「懐かしいね。あの日、君から手を繋いでくれたんだよ。それでわたしが言ったの、『好きです』って」

「僕から言ったんじゃなくて?」

「違う。わたしからだよ。だから君よりわたしの方が、愛情の量が多いの」

 よくわからない理屈だと思いつつ、機嫌の良さそうな彼女につき合う。そうか、僕の方が愛情が少ないのか、と思ってみてもピンと来なくて、だったら何故こんなに彼女を愛おしく思うのか理由がつかないと思う。

 風に散った花びらが側溝にたまって、桜の木には若葉が萌え出ていた。






 GW明けには学科で四泊五日の臨海実習があって、部屋を留守にした。一花はいつものように不安そうな顔をしたので、いつも通り部屋にいてもいいよ、と言うと、そういう訳にはいかないと言って家に帰って行った。大きな荷物を持って海辺の合宿所へ向かう。

 実習は天候にも恵まれて、たまに靴にフナムシが入っていたことを除けば楽しく過ぎて行った。夜になると小野寺と、免許を持った笹塚が車でコンビニに買い出しに出かけて、それは女子に得に好評だった。ヤツらは必要な物がある女子を車に乗せたり、または頼まれたお菓子やジュースを買ってきたりした。

 そのうち、小野寺が布団の中でそっと話しかけてきた。

「オレさ、告られて」

 びっくりして思わずすぐに声が出なかった。

「良かったじゃないか。誰?」

「……相田さん。この前、コンビニに行った帰り」

「それでなかなか上がってこなかったのか。おめでとう、小野寺。素直に祝っておくよ」

 笹塚は少し大きな声でそう言った。

「彼女いるヤツ、多いよな。松倉だろう、小野寺だろう、あとは誰だ?」

 俺はいるよ、と少し離れたところに寝ていた田代が言った。すんなり話に入ってきたことが不思議だった。特に僕たちとそれまで親交がなく、深くもなく浅くもなく人とつき合っているように見える男だった。

「田代の彼女はどんな子?」

「教育学部の1年生。取り立てて目立ったところはないかな」

「なんだよ、つき合い始めたばっかじゃん。『目立たない』とか、逆にのろけなんじゃないの?」

 オーバーに返事をする笹塚が面白くて、僕は笑ってその話を聞いていた。

 田代が口火を切ったことでみんなの口が軽くなり、いわゆる『恋バナ』になった。笹塚に突っ込まれて、僕は仕方なくみんなの前で一花の話をした。

「松倉の彼女ってあの、小さい子でしょ? かわいいよな」

「一花ちゃんは性格もいいんだよ、すげー女の子らしいし」

 言われてみると確かに一花はかわいくて、女の子らしかった。人前でそう言われると嫌な気はしなかった。

「うらやまし。ほら、のろけ聞かせろよ、松倉」

「え? のろけって。……そうだな、さみしがりかな」

 ヒュー、と誰かが口笛を吹いて場は何故か大いに盛り上がった。

「で、どっちから告ったの?」

「一花が言うには、一花からだって」

 誰かが、あー、やってらんねぇな、と言って他のみんなもそろそろ寝るか、と布団に潜った。




 翌朝、食事の支度に闇雲にパンを何枚もトーストしてる時、田代が話しかけてきた。

「おはよう、松倉。昨日はのろけ、ありがとう。イチカちゃんて言うんだ。彼女、かわいいよな」

「田代の彼女だってかわいいだろ?」

「どうかな、イチカちゃんと違って大人しくて地味な感じ。まだつき合い始めたばっかだから何とも。何かあったら相談するかも」

「相談相手になれるか謎だけど、話は聞けると思うよ」

 何しろ昨日、みんなに一花を褒められて僕はすっかり気を良くしていた。誰のどんな話でも聞いてあげられる気になっていた。


 この日を境に、僕と田代はただのクラスメイトから友だちになった。

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