第7話 戻らないもの

 休み明けの学校は年度末に向けて何かと慌ただしく、月日は滑るように過ぎていった。

 そんな中でも僕と一花の仲は変わることなく、僕には一花しか見えていなかった。彼女のする一つ一つの仕草や行動がいちいちかわいらしく見えて、言葉にはしなかったけれど大事にしようという思いは日に日に強くなった。




「君はレポート、終わりそう?」

「まぁ、まずまずかなぁ。一花は?」

「終わるとは思うけど、思ってたより進んでない」

 二人でこたつに入って、レポートを作る。一花は焦っているように見えた。口で言うほど捗ってないのかもしれなかった。

「一花」

「何?」

「レポート終わるまで、少し離れてた方が良くない? その方がきっと集中できて捗るよ」

「……」

 その大きな瞳は次第に曇って、いつしかぽたり、と大きな涙をこぼした。

「迷惑?」

「僕は一向に迷惑じゃないよ」

「じゃあ何で?」

 僕は一花の隣までずるずると席を移動して、その小さな頭を抱き寄せた。

「一花の勉強が捗らないなら、僕は彼氏失格だ」

「……わたしは彼女失格じゃない」

 涙はもう、一粒では収まらなかった。

「きちんと勉強を進めてなくてごめんなさい。だから、会わないとか言わないで」

「ほんの少しだよ。泣かないで。ずっと会わないわけじゃないし」

「丞……」

 華奢な手が、僕のトレーナーを掴んだ。次々と雫が雨のように僕に降り注ぐ。

「抱いて?」

 ぐっと来る。

 肩を震わせて泣く彼女を抱きたい気持ちがどんどん増す。理性が、リミッターとなってその気持ちを押さえつける。

「一花、それは何の解決にもならないよ」

「だって不安なの。少しでも離れてたら、何かが変わっちゃうんじゃないかって」

「僕はいつも通りで、何も変わらないよ」

「わたしは不安なの。離れる、なんて言わないで。丞と繋がってたい……」

 泣きじゃくる彼女をそれ以上、どうすることもできず、ただ抱き寄せた。彼女の頭を手のひらでなぞる。相変わらず腰のない細い髪は指に絡まりそうで絡まない。

 ――つまり、僕は迷っていた。

 この場でどう振る舞うのが最適なのか、近くに誰かがいるなら尋ねたいくらいだった。彼女を抱くのは簡単だけど、それで済ませるのは間違っていると思った。深い、寂しさの中にいる彼女を抱きしめて安心させてあげるべきだともう一人の自分は答えた。

 そのうち、彼女の嗚咽だけが響く部屋で考えを巡らせていることに疲れた僕は、結局、彼女のそのやわらかい唇を唇で摘んだ。

「……ごめんなさい」

「いいよ」

「ワガママでごめんなさい」

「いいよ」

 言葉と同時に繰り返すキスはそれで止まるわけもなく夜の闇に流されて行った。






 彼女を抱いた翌朝、彼女の荷物が少なくなっていて、ベッドに座って昨日のやり取りをぼんやり考える。あの流れからどうしてこうなるのか、わからなかった。そして、一花が音もなく出て行った時、その気配で目が覚めなかった自分はバカだと思った。

 とりあえず顔を洗おうと立ち上がると、こたつの上に1枚のルーズリーフが出しっ放しになっていて、そこに目が止まる。ルーズリーフには一言に限らず、長い文字列が書き込まれていた。


『昨日は困らせてごめんなさい。丞の言う通り、なかなかレポートが捗らなくて本当は困っていました。でも授業にはちゃんと出ているし、ノートも取ってて……。どうしてこうなってしまったのか、自分でもよくわかりません。けど、決して丞のせいではありません。つき合い始めてから今まで一つも単位を落としたことはないし、レポートの期限に間に合わなくなりそうになったことはないんです。よくわからないけど、わたしの中の何かが変わって、今回のようなことになったのだと思います。悪いのはわたしです。離れるのは嫌だけど、自分のせいなので、きちんとやるべき事が終わるまで会わないことにします。ごめんなさい』


 僕は昨日、確かに、このまま勉強が捗らないなら少し離れていたらどうかと尋ねた。けれどそれは僕が思っていた以上に彼女にとっては大事おおごとで、思い詰めるようなことだったのだろう。




 その日を境に、プツッと一花の顔を見ることがなくなった。

 元々は一花の学部とキャンパス自体が別だったので、そのせいなのかもしれなかった。それとも一花が僕の姿を見かけると小走りに去っているかもしれないと思ったら……。それを考えるだけで胸が痛んだ。






 テスト期間に入って、いよいよレポート提出が終わるという頃、僕は少しずつ不安に取り憑かれていた。

 このまま後期が終わっても、一花は僕のところには帰ってこないんじゃないか、という思いが頭の中で渦巻いた。僕の方がテストもレポートも危うくなりそうで、必死で一花を拭い去る。どんなに心が揺れても、僕の中の一花はいつもと同じ位置で笑っていて、こんなに不安に思っている僕に「大丈夫だよ」と言っているようだった。そしてその考えは、かえって僕の孤独を増した。






『全部終わったので、会ってくれますか?』

 待ちわびた言葉が僕のスマホに届いたのは、冬の終わりに手が届きそうな季節だった。僕は安堵のため息をひとつついて、メッセージをタップして返信をする。

『会えなくてさみしかったよ』

 と。

「丞!」

 女の子にしては大きな荷物を持って、僕の彼女は改札から飛び出した。

「一花、なんて言ったらいいか……」

 後悔ばかりが先に立つ。謝らなければいけない、と思いつつ、言葉がするりと逃げて捕まらない。

「この間は……ごめんなさい。感情的になりすぎて。こんなんじゃ君に嫌われちゃうってあの夜、反省したの。悪いのは自分なんだから、罰を受けるべきだと思って」

「一花のことを考えなくて意地悪なことを言ってごめん。ずっと、会いたかった。今までどこにいたの?」

「え? 普通に図書館とか。向こうのキャンパスには大きな図書館がないし、資料が必要だったから。それで勉強してから真っ直ぐ、家に帰ってたの」

 何も言わずに抱きしめる。通り過ぎる人たちが僕らを見ているような気がしたけれど、そんなことはもうどうでもよかった。今はただ、僕のために一花がここにいるだけでいいと思った。




「離れてる間、君はどうしてた? ちゃんとご飯、食べてた?」

「食べてたよ。面倒な時は夕飯も学食で食べたし、コンビニも近くにあるし」

「つまんないなぁ。もっと、『一花がいなくてさみしかった』って言っていいんだよ」

「……さっき言ったよ」

 バツが悪くて前を真っ直ぐ見られない。自分の考えなしの一言で会えなくなったのに、何を大きな声で言えるんだろう。

「聞こえなかったよ」

「……さみしかったし、会いたかったよ」

 一花はふんわりと笑った。

「そんなふうに思ってくれてうれしい。さみしかったけど、会えない時間が無駄じゃなかったって思えるもの」

「そうかな?」

「思い出してくれて、たまにはさみしいとお世辞じゃなく思ってくれたんでしょう?」

 真っ直ぐに瞳を見つめられると、彼女が何かを僕の瞳の中から探してくるんじゃないかとドキドキする。いつもより濃厚に彼女の存在を感じた。

「いつも一緒にいたから一花がいるのが当たり前になってて、いなくなったらどうなるかなんて考えてなかったんだ。さみしかったよ」

「迷惑かけてごめんなさい」

 僕の子犬は、また手の中に帰ってきた。永遠に戻らないものは何も無いと確信した。



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