第3話 遠くの花火

「ねー、一花ちゃんはもうサークルに出てこないの?」

「ああ、うん、出られたらいいなぁと思うんだけど、授業も忙しくなってきちゃって」

「マジかー! 一花ちゃん、いないとうちのサークル、掃き溜めだけになっちゃうよ」

「他にも女子、いるし、ほら、ここで会うでしょ?」

 僕の隣で困った顔をして一花は笑った。相変わらず懲りずに一花に話しかけてくる小野寺を横目で見ていた。僕たちは学食で食後のお茶をしていた。給湯器から出てくる薄緑色の液体は、ほのかに緑茶の味がした。

「ここで会う時はさ、こいつも一緒じゃん? 一花ちゃんだけで来ていいんだよ、サークルは」

「あ、そうだね。うん、考えておく」

 そんな時の焦った一花はかわいそうになるくらいかわいくて、その困り顔をしばらく見ていたくなる。一花は僕に助けを求めてきた。

「なかなか本当に時間ないよね?」

「ああ、一花は忙しいよ。家、遠いし」

「……どうせ松倉のところに泊まってるんでしょう? 半同棲?」

「してないって」

 顔の前で彼女は手を振って否定した。次第に耳まで赤くなってきているのがわかる。

「でも、遊びに行くんでしょ?」

「それは……行くけども」

「これ以上、一花ちゃんを困らせられないけどさ。あー、いいな、マジで。オレも一花ちゃんとお部屋デートしたい」

 お部屋デートって言うのか、とくだらないことを考えていた。窓の外に見える空からは雨が降りそうだった。

「悪い。一度、部屋に帰るわ。洗濯、干しっぱなしなんだ。一花は小野寺と話してたら? すぐ戻るよ」

「え、わたしも行くよ」

「自転車ですぐに行ってくるから、ここにいなよ」

 待ってよ、と一花は言ったけれど、その一方で小野寺が、気をつけてな、と言うのを背中で聞いていた。




 自転車のペダルをぐんと踏むと、雨がアスファルトを黒く斑に染め始めた。大粒の雫が空からこぼれていた。

 僕が洗濯物をしまって、雨の中、傘をさして急いで学食に戻ると、当たり前だけどふたりはその場でさっきと同じようにお茶を飲んでいた。

 けれどよく見ていると、一花の口数はいつもよりぐんと少なかった。小野寺の話に一生懸命合わせているのが手に取るようにわかった。

「お待たせ」

「丞」

「悪い、小野寺。オレたち、もう行くわ」

「おお、一花ちゃん、またサークル来てね」

 じゃあ、と小野寺に手を振って一花の手を取った。

「小野寺でも緊張するの?」

「え? あ、見てたの?」

「さっき戻ってきた時に」

「……君以外は誰でも緊張するよ」

「そっか」

 家を出る時に持ってきた傘を彼女に渡すと、パタンという小さな音をたてて傘は開いた。ビニール傘の内側から見ると、丸い雨粒が飛び跳ねて傘の表面を滑った。

 僕たちは黙って手を繋いで部屋まで歩いた。繋いだ手を一花は小さく前後に振った。

「濡れた?」

「うん、少し。カバンを拭くものある?」

「ああ、このタオルで拭いちゃって」

 言葉が少なかった。お互いに濡れたところを黙って乾いたタオルで拭いていた。外は次第に降りが強くなってきた。

「だから、置いて行ったらやだ」

「え?」

 拭いてあげる、と彼女は僕の手に持ったタオルを取り上げた。肩から背中にかけて、トントンと僕のよく知る小さな手で叩いてくれる。その力が少し強くなって、彼女はまた口を開いた。

「だから、ひとりにしたらやだってこと」

「ああ……、悪かったよ。気をつける」

「君以外の男の子とふたりきりとか困るし」

 振り向くと、一花は明らかに拗ねていて、僕の胸に頭を強く押し付けてきた。

「悪かったよ」

 小さな頭を撫でつける。くせっ毛の子犬が雨に濡れた後のように、彼女の髪もまた、くせを強くしていた。

「一花、こっち向いて」

 瞳をくるりとこちらに向けて、彼女の顔が上を向く。キスをするのに丁度いい高さになる。僕は少し屈んで、彼女の鼻に自分の鼻をつける。

「仲直りになる?」

「ケチ」

「キスしていいの?」

 彼女はちょっと背伸びして、僕にキスをした。逃がさないうちに捕まえて、僕からもキスをした。






 夏休みになると一花が泊まりに来る理由も無くなってしまい、仕方なく僕は実家に戻った。

 彼女からは毎日のように「会いたい」と急かすような文面のメッセージが届いて、たまらず寂しくなると電話がかかってきた。実家で聞く彼女の声はどこか遠い花火のような感じがして、気もそぞろになる。花火の音を聞いているだけではそわそわするだけで、見えないとわかっていても見える場所を探してしまう、そんな性分だった。

「花火?」

「うん、一花の声って花火みたいだなって思って」

「花火って、意味わかんない。うるさいってことかな?」

 クーラーの効いた部屋で扇風機を抱えながら花火のようによく転がる彼女の声を聞いている。BGMには虫の鳴き声が、か細く響いていた。

「だから早く会いたいなって思って」

 電話の向こう側は一瞬、しんとして、それから一花の細い声が聞こえてきた。

「そんなこと君から言ってくるの、初めてだと思う」

「ダメだった?」

「ダメじゃない、けど」

「けど?」

「……早く会いたくなる」

 一花には息苦しいのではないかと思われる家に彼女を閉じ込めて、何をする訳でもなく実家でごろごろしている自分を反省する。泊まりに来る理由はなくても、外に連れ出してあげることならできることに気がつく。

「早めに戻るよ」

 心の中の一花を抱きしめる。小さな頭に僕のかわいくはない手のひらを押し当てて。




 戻ることを伝えると母は、「まだお盆終わったばかりなのに」と僕を軽く引き止めた。僕は男兄弟の末っ子だったから家ではわりと優遇されていて、好き勝手にやらせてもらっていた。好き勝手にやることが面倒だと感じるくらい、僕は自由だった。

 大きめのリュックに衣服を詰めてホームに立つと、秋からは程遠く思える熱気が体中にまとわりついた。帰省から戻る人たちの群れとは時期が違う、それほど混まない田舎の電車に乗る。リュックを足元に下ろして席に着くと、快適な車内で汗がすっと引いた。アブラゼミの声も、しんとした車内には届かない。




「丞!」

 待ち合わせていた駅の入口で待ちわびた一花の顔が見える。田舎で田んぼのへりに植えられて待ちぼうけをくらったような顔の向日葵を思い出す。半分、泣いてるんじゃないかと思う顔をして彼女は僕を迎えた。

「もうずっと帰ってこないのかと思った」

「な訳ないでしょう、学校あるし」

「でもさ、全然帰ってくる気配がなかったっていうか……」

 果たしてどっちに行くことを「帰る」というのか、少し考える。彼女にしてみれば、彼女に近いところに行くことが「帰る」ということなんだろう。女の子は複雑だ。


 一花は今日はいつもは被っていない紺のリボンを巻いた麦わら帽子を被っていて、僕の好きなやわらかいくせ毛は見えなかった。

「行こうか」と言うと、「待ってて」と言って走って行ってしまった。休暇中のホームは人も少なく、いつもと違って見える。仕方が無いので寄りかかれるところを探して、観光地のポスターの脇の壁に寄りかかった。

 彼女は間もなく帰ってきた。

「お待たせ、ごめんね」

「うん」

 どうしたの、と聞こうと思ったけれど、トイレかもしれないと思うと聞くのが憚られた。つき合うようになってから、体の関係まで持つようになってもそういうことに慣れなかった。何も聞かないのがベターだと思った。

「また手に汗かいたかなと思って。大丈夫、石鹸でよく洗ってきたから」

 彼女は自分の白くて細い、女性の代表のような指を僕の前に晒した。

「僕が洗った方がむしろ良くない?」

「いいの、いいの。そういうことじゃなくてわたしの手がキレイかどうかが問題だから。そんなことで嫌われたくないし」

「嫌わないよ」

 麦わら帽子の上にポンと手を置く。

「どうでもいいから、今のうちに繋いで? 手がさらさらのうちに」

「意外と潔癖だよね」

「そういうつもりではないけど。男と女の違いじゃない?」

 離れていてもかわいいものはかわいいままで、それをうれしく思いながら手を繋ぐ。彼女の言う通り、その手はさらっとしていて、逆に僕を想っていた気持ちを隠してたんじゃないかという気になる。晩夏の暑さのわりにさらりと乾いた手は、妙な違和感を僕に残した。

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