第4話 汚れたまま会いたくなくて
何も無かった夏休みは無為に終わり、いつもの忙しい日常に戻る頃にはすっかり足元に秋が訪れていた。
一花はまた僕の部屋に泊まることが多くなり、まさに小野寺の言うところの「半同棲」という言葉が似つかわしくなってきた。
一花の親は今の状態をどう思っているのかわかりかねたけど、そのことで一花が電話で怒られているような様子も見えなかったので、口出しはしなかった。ひとり暮らしをさせてやれないという後ろめたさが彼女の外泊を許すのかもしれないし、何よりいらぬ心配をして波風を立てたくなかった。
「最初は、君の部屋に小さい片手鍋と炊飯器とやかんしかなくてどうしようかと思った」
料理を始めると一花はよくその話を持ち出した。
「初めて作るなら無難にカレーかな、と思ったのに片手鍋しかなくてどうしようかと思ったんだよ。あれ、インスタントラーメン用だよね?」
「うん、そんなこともあったね」
キッチンに立つ一花の背中から近づいて、軽く抱きしめる。彼女は首だけ後ろに回して、器用に僕の顔を見る。こんな時、あ、待ってるな、と思う。
「そしたら今度はスプーンもお皿も足りないし」
「うん、そうだったね」
「急いでコンビニに買いに行ったとか、聞いたことないよね?」
そうだね、と言いながらキスをする。一花がレタスを剥いていた手を休めて、僕の体に腕を回す。
「……違うものにしようかと思ったけど、今日はカレーにしよっか?」
「いいけど?」
「何となく食べたくなっちゃった」
そんな風にして後期の授業が始まって、ただ毎日が日課表からズレることなく進んでいく。月曜日の次は火曜日で、2限の後は昼飯だ。
火曜日は一花は実習で別のキャンパスに行っているから少なくとも夜まで会えなかった。そんな日は特にレポートが滞ってなければ、一人で借りてきたDVDを見た。最近では映画のほとんどがネットで配信されているけれど、見たい映画に限って、僕が契約しているところでは見られなかった。
一花といる時は普通に、「ヒューマンドラマ」か、「恋愛」なんかを見る。予想通り彼女は泣く。
「良かったねー」とまるで子供に言って聞かせる母親のように、一花は何度も顔をぐちゃぐちゃにして感想を述べる。絶対、一緒に見ないゾンビ系のホラー映画を見ながら、そんなことをぼんやり思い出す。会っていれば当たり前のその存在は、離れていると妙に存在感を増して僕に不在を訴える。そんな時、戸惑う。
『終わったー!』
『お疲れ』
『丞は何、してたの?』
『うん、DVD』
『好きだよね』
まぁ、それなりに、と答える。明かりをつけない部屋で一人でいるには秋の夜長は寒々しい気がした。
『一花はさ、今日は』
『砂まみれだからまっすぐ帰るね。汚れてる時に会うの、恥ずかしいから』
『そういうの、恥ずかしがらなくていいって前から言ってるじゃない?』
『わたしが嫌なの。お願い、明日は行けると思うから、その時にゆっくり話そう』
プツッという機械音がして、電話の向こう側は無音になる。一花と繋がっていた空間が遮断されて、僕たちは切り離されてしまった。でもそれを止めようもなかったし、努力が及ばなかったんだから甘んじて結果を受け止めなければならない。
「寂しい」というその一言が、どうしても口から出てこなかった。
……「寂しい」って何だろう? 誰かの不在がそう思わせるのか。それとも人肌が恋しいからそう思うのか。
コンビニで買ってきた牛丼を温めて、考える。途中で紅生姜を入れるのを忘れたことに気がついて、ついでに生卵を割入れる。
心が今日一日でゆっくり疲労してしまったことを感じていた。冷蔵庫の中に残っていた、少し気の抜けたコーラを気休めに飲む。
ピンポーン、とチャイムが鳴って、覗くと待っていた人の顔が見えた。
「来ちゃった」
一花は目を合わせようとはしなかった。僕はとにかく彼女を言葉で捕らえてしまいたくて、
「会いたくなっちゃったんだ」
と狡い言葉を告げる。一瞬顔を上げた一花と目が合って、待っていた僕はキスをしてしまおうと思ったのだけど、彼女は顔を伏せた。がっかりした。
「実習で埃っぽくなっちゃったから、先にシャワー浴びさせて」
「うん、いいよ。一花、お腹減ってない? なんか買ってきてあげようか?」
「うん、じゃあグラタンかドリアがあったらそれ食べたい」
了解、と言って部屋の鍵を閉めてまたコンビニに行く。シャワーを、隅から隅までかけて洗っている彼女を思い浮かべる。抱きしめたらまた、彼女の素肌はさらっとしているんだろうか。
彼女がシャワーから上がる頃、部屋はチーズの香りで満ちていて、僕はその中で牛丼を食べ尽くしていた。
「丞」
僕の名を呼ぶと彼女は軽く腕の中に滑り込んできて、ネコのように丸まった。いつも通りだった。
「火曜日は、実習で会えないって覚悟しておくべきなのかな?」
彼女のまだ濡れたままの髪を弄っていると、そのままの姿勢で一花は答えた。
「……汚れたまま会うのが嫌なの」
「汚れてても一花は一花だし。なんか哲学的になって来たな」
「一花は一花なんだけど、いつまでも女の子として見てほしいから……」
僕は一瞬押し黙った。まるで何かの必殺技を食らってしまったかのようだった。
電子レンジが次の行動を促して、ピーピーと繰り返し呼んでいたけれど、僕も一花もそのままの姿勢でそこにいた。
石鹸の匂いがする。
僕は一花に包まれる。
彼女は僕を抱きしめて、満足そうに眠っている。
窓の外には煌々と白い月が貼り付けたように輝いていて、すべてがそれに支配されていた。
いつの間にか僕は、僕の方が、一花を追いかけるようになっていた。彼女は花のように微笑みながら、風に揺れてひらひらとその身を翻した。覆っていた固い殻は破れて、小野寺や笹塚にも笑ってみせるようになった。
「それでね、その時に……」
「やだー、笹塚くん。笹塚くんっていつも無口なのに、怪談が上手とかないよね?」
「無口かどうかは置いておいて。とにかくその階段を上ると……」
「きゃー、やめて! ねえ、丞からも何か言ってよ」
楽しそうなので水を差さないでおくと、一花から僕に頼ってくる。僕は意地悪をせずに助け舟を出す。
「一花はさ、怖いのはからっきしダメなんだよ。許してあげてよ」
「怖がる一花ちゃんがかわいいんだよ」
小野寺はいじめっ子の顔をして、何があっても一花をいじめようと決めているようだった。一花も「それで?」と言って何だかんだ楽しそうだし、頬杖をついてぼんやりと3人を見つめていた。
そんな中で「今度、4人でどこかに行こうか」という話が出ても、その時にはあまり不自然なことではないように思えた。ちょうど、奥まったところに行けば紅葉がキレイな季節でもあったし、世間はいわゆる行楽シーズンだった。一花も行きたがって、行くことが決まると毎日その話ばかりをした。
何だか面白くなくなってきた。
確かにいつもふたりきりでいるんだから、たまには他の人を交えても楽しいのかもしれない。でも面白くない。他人と出かけることを無邪気に喜ぶ彼女を見ていると腹が立った。そうなると自然に口数も少なくなって、一花も僕の顔色を窺うようになってきた。
「ねえ、最近の君、おかしくない?」
「別に何も変わってないよ」
「そう? それならいいんだけど」
僕を除く3人は、行き先をテーマパークに決めていた。絶叫マシンに乗るんだと言っているかと思うと、一花は「怖いから乗れないかも」と場を盛り上げた。その話し合いは主に学食か、僕の狭い部屋で行われて、ますます面白くなくなってきた。
「おい、松倉は何に乗りたいんだよ」
「そうだね、丞の乗りたいもの、聞いてないよ」
「絶叫系、ムリとか言う?」
3人は声を上げて笑った。
「別にムリじゃないし。行きたいやつが、乗るものも決めればいいだろう? ついて行くから」
言ってしまってからハッとなることは多い。まるで拗ねているようでもあるし、行くこと自体に興味が無いようにも聞こえる。確かにそうだったけど、社交的な見方をすればそれを表に出すのは間違っている。火を見るより明らかだった。
その後、楽しくみんなでデリバリーの少し高いピザを食べている間も、何か言葉を口にするのは憚られた。
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