第2話 離れないよ

 つき合い始めてから一花は度々、僕のあまりキレイではないアパートに遊びに来るようになった。

 最初は空きコマや休講のせいで中途半端に空いた時間に遊びに来ていた。僕たちは途中のコンビニでお菓子と飲み物を買い、健康を脅かす食べ物をたくさん消費し、環境保護団体を敵に回すような量のゴミを出す一端となった。

「松倉くんの部屋って、松倉くんの部屋な感じがするね」

 一花は不思議なことを、僕の部屋の片付けをしながら言い出した。

 いくら丁重に断わっても、彼女は僕の世話をやくことをやめようとはしなかった。ひとり暮らしの兄を優先するような家庭に育つと、男はひとりでは何もできないという価値観に縛られてしまうといった感じだった。

「僕の部屋は何か特別ってこと?」

「ううん、君らしいってこと。わたしは好きだよ、君が君らしいところ」

 それまでも感じたことがあったけれど、女の子というのは不思議な生き物だった。遠くに住むペンギンのことなんかどうでもいいくらい、隣の彼女を知りたかった。

「ねえ」

「ん?」

「僕も一花が好きだよ」

 手を取るとまだつき合う前だった時のように一花は赤くなって僕の目を見た。彼女の目の中には僕だけが今映っていて、それ以外のことに興味は持てないようだった。

 僕はその隙を巧妙について彼女の唇を奪った。思っていた通り、それはやわらかくてしっとりしていた。





 長い梅雨が終わる頃には、一花は僕の部屋に頻繁に泊まるようになっていた。6月になると大学の授業も忙しくなり、彼女も家と大学の往復に飽き飽きしていた。

「授業が6時前に終わって、それから最短で電車に乗っても8時半になっちゃうの。何もできなくて」

 お兄さんの大学の方が明らかに彼女の家から近かった。僕の意見はお兄さんを家に戻して、彼女をもっと近いところに住ませてあげてほしいというものだったけれど、彼女はそれに対していつも遠慮して見せるので、僕は意見を心にしまった。

 そして代わりに口にした。

「往復5時間でギリギリの生活を送るのはもったいないよ。遅くなる日は泊まりに来ればいいよ」

「……前にもそう言ってたよね」

 間違ったことを言ったかな、と思うと自然に口を塞ぐように口元に手が行った。女の子に部屋に泊まることを何度も勧めるのは間違っている。

 正直なことを言えば、つき合い始めてから少し経ったのでキスより先に進んでもいい頃合かもしれないと考え始めていた。時にはその考えが僕を支配しようとすることもあった。

「一花ごめん。僕はだいぶ無神経みたいで」

「謝らないで。……わかってるんだ、ほんとは。世の中の人たちにとって、それは思っているほど難しくないってこと」

 短い髪を耳にかけながら一花は話した。その仕草を見ていると、彼女は以前は髪が長かったんじゃないかと思えた。

「今度の金曜日、その日は実習で遅くなるから泊まりに行ってもいい?」

「構わないけど。一花こそ、両親が心配したりしないの?」

「お嫁に行く訳でもないし」

 彼女はそこで吹き出して笑った。一気に緊張がほぐれたようだった。

「ちゃんと友達のところに泊まるって、嘘をついて行くから」

 待ってる、とその日までの間も毎日会うはずの僕らはその日を待ちわびた。






 一花が泊まりに来るようになって大きく変わったことは一目見る限りでは無いように思えた。でも僕の中では確実に何かが変わって行った。

 人並みとはそれまでも思わなかった価値観がさらに人々から遠ざかり、奇妙に重い責任感を自分から背負った。一花を背負って歩くことが第一課題になり、そうやって責任を持ちながら彼女を失うことを避けようとした。運命の流れに対し、僕は思っていた以上に従順だった。






「金曜の夜に笹塚の部屋でみんなで麻雀やろうぜって言ってんだけど、松倉も来いよ」

「麻雀禁止のアパートとこ、ほとんどじゃない? 笹塚のとこ、よく大丈夫だな」

「バーカ、夜中にジャラジャラやってたら追い出されるに決まってんだろ? カードだよ、トランプみたいなやつ」

 ああ、なるほど、と合点が行く。そもそも牌や雀卓が揃ってたら笹塚のところは雀荘よろしく、みんなのたまり場に既になっていたに違いない。

「きっかけは何でもいいんだよ。お前も遊びに来いよ」

「あー、ごめん、金曜は……」

 小野寺はすべて承知したという顔をして、口を開いた。

「わかった、それ以上、何も言わなくていい。リア充を誘ったオレが悪かった。お前は違うんだよな?」

「違うわけじゃないけど」

「入学した時に思ったんだよ、松倉はモテそうだって。ほら、見てみろよ。入学してまだ半年も経たないのに一花ちゃんみたいなかわいい彼女連れてさ」

「一花は」

「はいはい、サークルのみんなのアイドルだよ。まさに掃き溜めに鶴。一花ちゃん以外の女子は、なんつーか環境保護団体に入って捕鯨船に石投げてそうだもんな」

「それは言い過ぎだと思うけど」


 僕と一花はつき合い始めてからそれぞれ、どちらから言ったという訳ではなくサークルから足が遠のいて行った。

 元々、熱い思想のようなものに興味のなかった自分はそうなるのが自然だったけれど、一花には一花なりに環境を保護したい理由が強くあったので、サークルに行かなくなったのは意外だった。それでも通学時間が長いせいかとあまり深く考えなかった。


「一花はさ、もう、サークルはいいの?」

「丞だって全然行ってないじゃん? 何、今さら」

 僕の部屋で暇つぶしにそこにあった少年誌をめくりながら、一花はそう言った。

「いや、ペンギンとかヤマネはもういいのかなって」

「ああ……、それか。良くはないけど、あそこにいても何も変わらない感じはしたから」

「一花、そんなに本気だったんだ?」

「何よ、大切なことじゃん」

 あわてふためいて反論する彼女がかわいくて、寝転がったまま最新号を読んでいた僕は彼女をいつまでも構った。

 ふたりして転がりながら笑い合っていると、不意に静寂がやってきて、胸の中に黒いものが広がる。僕はそのまま、一花に口づけをした。

「丞? したいと思う?」

「別に僕は今のままでも」

「わたしは良くないの。して」

 まだ何も無いところに、彼女はぐるぐると熱く煮えたぎるものを落として行く。理性というは外れ、床の上に転がっていた彼女にそろそろと近づく。「好きだよ」と決まり文句を呟くと、その後は僕は彼女に口を開く機会を与えなかった。




「怖くなかった?」

「怖かったよ」

 ベッドの上からずるずると薄手の布団を引きずり下ろして、くるまっていた。考えてみれば、初めからベッドの上で為せばよかった。

「怖がらせたんじゃ、しなければよかった」

 そう思うと自分がすごく愚かしく、劣った人間性の持ち主のような気がして何かがしゅんとした。

「してほしいって言ったのはわたしだからいいんだよ。つまり、してくれてありがとう。……わたしでよかった?」

「気づいてたの?」

「わたしも経験ないからもしかしたらって思ったくらいだけど、お互い初めてだったよね?」

「うん、僕より慣れてる人の方が良かった?」

 彼女は僕にぴったりと寄り添って、汗が接着剤のように二人を張り合わせた。一花は小さく、まるで小雪が降る季節のように息を吐いた。

「夢中になっちゃって、上手くできてるか心配で。そのうちよくわからないうちに君でいっぱいになっちゃった。わたし、変じゃなかった?」

「全然。離したくなくなった」

 離れないよ、と耳元で囁くと僕の頭は一花に抱きしめられていた。彼女の小ぶりの胸に限りなく近いところにいた。僕の額に彼女はキスをした。


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